高峰譲吉博士研究会

高峰博士ゆかりの地・人

1)ゆかりの人‥‥塩原又策の末娘/原 邦子さん

(インタビュー)

原 邦子

 高峰譲吉博士のゆかりの人、塩原又策の末娘である原邦子さんにお話をうかがいました。邦子さんは昭和5年生まれ、現在、80歳。塩原又策翁が53歳の時に誕生された6女で、男子6人、女子6人、12人兄弟の末っ子でいらっしゃいます。
「父と暮らしたことのあるものは私だけになりました」とのこと。
 今回、邦子さんにお話いただきましたのは、おうちでの塩原叉策さんのご様子。高峰譲吉博士と信頼の絆で結ばれた塩原叉策のお人柄がうかがわれる、貴重なエピソードでした。


--- 塩原叉策さんは、どのようなお父様でいらっしゃいましたか?

「なにしろ、自然のまんまの人です。怒られたこともないし、褒められたこともない。厳格ということはなかったですね。厳しいことを言われなくても、親を見ていればわかります。こういうときはこうするものなのか、と親の姿を見て、覚えるだけですから。
 私は一番上の姉と年が24はなれておりまして、その姉の娘というのが、私より3ヶ月前に生まれているものですから、父にとって私は孫のような感じもあったかもしれませんね。
 進路についても、こうしなさい、ああしなさいと、父から言われたことがないです。私は女学校のあと3年間専攻科に行って、それからアメリカに4年間留学したんです。アメリカを敵国だとか思ったことがまったくありません。
 小学生のころに、お友達から、あんまりアメリカのことを褒めるといけないんですって、と言われて、あらそうなのって思ったのは覚えていますけど。
 やはり、高峰先生の関係で、父も外国に対する考えが自由で、開けていたのだと思います。国際的であらねばならない、とわざわざ言うまでもなく、自然に国際的だったように思います」


--- お父様はおうちで仕事のことや高峰博士のことはお話されましたか?

 「ほとんどそういう話はしませんでしたね。ただ、私が小学生のころだったかしら、うちの金庫にしまってあった株券を見せられて、これは大事なものだよ、と父が言ったことを覚えています。だから、私は今だに商売人は好きですね。商売ってものはとてもいいものだと思います。
 高峰先生がお亡くなりになったのが、私の生まれるだいぶ前のことですから、高峰博士とうちの両親とのつきあいを実際には私は知らなくて、ごく最近になって、ほかから見聞きして知ったこともあります。高峰博士の生涯を描いた映画に、塩原叉策が博士にタカジアスターゼの販売権を譲っていただけるように、夫婦して頼んだというシーンがありまして、それを見ましたあとに、兄嫁や甥と、やはり最初のころは大変だったようねぇ、と話したりしました。

 高峰博士と父は兄弟の杯を交わしたと記録にありますし、そうとうに親しい関係を築いていたのだと思います。
 高峰博士のお子さんもお孫さんもずっとアメリカにお住まいでしたので、父は自分の息子、5男の健三に高峰姓を継がせました。健三が昭和20年に戦死したのちには、健三の弟の英三にあとを継がせました。そのあたりのことについて、父も母も詳しい説明をすることはありませんでしたが、日本に高峰の姓を残したいという希望が父にあったのだと思います。


--- 邦子さんのお母様、塩原叉策さんの妻、千代夫人はどのようなかたでしたか?

原 邦子 「シャキッとしてましたね。うちの中のことはすべて母が取り仕切っていて、父はノータッチでした。母はいわゆる日本的なしきたりにとらわれない人で、めんどうなことは一切しない。進歩的というのか、今、考えてみても思想がものすごく西洋的でした。
 合理的で、無駄な贅沢はしない。だけど、当時、うちを手伝ってくれる住み込みの娘さんたちが十数人いて、お盆と暮れには、自分の娘たちにあつらえるのよりもいい着物をみんなに作ってあげていましたね。面倒見がよくて、そういうことを母自身も楽しんでいたようです。
 それで、天下一品、さっぱりしている。私は父のお葬式を知らないんです。アメリカに留学中のことで、私の姉のひとりは、父親の葬式なのだから、絶対に邦子を帰国させなくてはいけないと言ったらしいですけど、母は、今、邦子が帰ってきたからといって、パパが生き返るわけではないし、せっかくスカラシップをもらって留学したのだから、4年間の勉強をちゃんと終えてから帰国しなさい、と言いました。そういう、とてもさっぱりしたところがありましたね」


--- お父様については、思い出されるのはどんなお姿ですか?

「父は葉巻が好きで、いつも葉巻のにおいがしました。母もよく言ってましたけど、父と一緒になにか集まりのようなところに行くと、塩原さんがいらしたことが葉巻のにおいですぐわかる、ってみなさんに言われる、と。
 お茶会はよくやっていたようですね。朝、早くからやる朝茶というのかしら。だけど、私たちは我、関せず。兄たちは、裏千家も表千家もなにも、おれたちゃ横千家だよ、なんて冗談を言うばかりでしたね(笑)
 それと、父は、年がら年中、ものを書いていましたね。ちょっと独特な字を書くんですよ。それがね、ノートにでもなく、新しい紙にも絶対に書かなくて、いろんな広告の裏なんです。日記のようなものとは違っていたんでしょうね。だいぶ高齢になってからも、居間の椅子に座って、書いていました。何か、思いついたアイディアのようなものでも書きとめていたのでしょうかね。今となっては、誰にもわからない。
 新しい紙を使うのはもったいないと思ったのかしらね。ただのケチというのではなくて、合理的というのか、こだわらなくていいことにはこだわらないようなところがあったのでしょう」


--- さてこのたび、NPO法人高峰譲吉博士研究会の会員になっていただきましたが…

「せっかくのご縁ですので。高峰博士たちが活躍された時代の精神のようなものを広く知ってもらうことは、今の人たちのためにもなると思います。また、医薬品業界で三共(現・第一三共)のように長い歴史を持っているところは少ないと思いますので、その歴史が伝えられていくことはよいことだと思います」

--- どうもありがとうございました。


(取材:平成22年10月14日/文責:事務局)
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原邦子さん

原 邦子さん

1930年生まれの80歳。
'59〜'69まで、ご主人の仕事の関係もあってウィーン(オーストリア)滞在。
現在も週に一度はテニスをされるという、大変お元気で活動的な方です。
東京都渋谷区在住。