高峰譲吉博士研究会

高峰博士ゆかりの地・人

4)ゆかりの人‥‥浅野総一郎

実業家。東京人造肥料株式会社設立に関わる。高峰博士の研究に賛同し支援する。


略 歴

浅野総一郎 浅野総一郎は、1848(嘉永元)年3月10日、富山県氷見郡藪田村(現在の富山県氷見市)で医者の長男として生まれました。
 しかし郷土の偉人・銭屋五兵衛にあこがれていた総一郎は医者の道は目指さず、商いの道を目指しました。幾たびかの事業に失敗の末、1871(明治4)年、24歳の時に上京しました。
 まずお茶の水で砂糖を入れた冷水を売る「冷やっこい屋」を始めました。さらに竹皮商から薪炭商へ転じて、コークスの売り込みに成功しました。

 総一郎は横浜市営瓦斯局で毎日排出される燃料炭の残骸コークスの処理に困っていたことに着目、東京深川の官営セメント工場の技師鈴木儀六を訪ね、コークス利用の研究を依頼します。結果は良好で、早速瓦斯局と交渉し安値で数千トンのコークスを買い取り、大きな利益を得ました。
 1878(明治11)年横浜瓦斯局は、これもまた処理に困っていた廃物のコールタールの販売を委託してきました。

 この2年前に、総一郎は生涯の恩人に出会っています。第一国立銀行頭取で抄紙会社(後に王子製紙)社長でもあった渋沢栄一その人です。この後の深川セメント工場の払い下げ(後の浅野セメント)、磐城炭坑の開発、浅野回漕店(海運業)発足には常に渋沢栄一の惜しみない支援がありました。
 1896(明治29)年、浅野は永年の夢であった外国航路への進出を目指し、渋沢をはじめ主だった財界人を招き協力を求めました。この席で天下一のしまり屋といわれていた安田善次郎がまず賛成したことで、参加者全員が新会社設立に参加することになります。安田はこのころから、浅野の事業家としての度胸と手腕に惚れ込んで、資金の面倒をみるようになっていました。

 一方総一郎は、1896(明治29)年に欧米を視察して米国などの港湾開発の発展ぶりを目の当たりにし、旧態依然とした横浜港を何とかしなければならないと思い至ります。東京市から横浜市にかけての海岸部に工場を一体化した、日本初の臨海工業地帯の建設を計画しましたが、なかなか許可が下りませんでした。
 1912(明治45)年3月、渋沢栄一、安田善次郎の協力を得て新規に約70万8000坪の埋立を出願し、翌年には県の免許が下り、鶴見埋立組合によって着工されました。翌1914(大正3)年には「鶴見埋築株式会社」(現・東亜建設工業株式会社)を創立、埋立組合の事業いっさいを引き継ぎます。
 総一郎はその後、浅野造船所(後の日本鋼管、現JFEエンジニアリング)など多数の会社を設立し、一代で浅野財閥を築き上げ、日本の発展と自らの夢の実現に生きた浅野総一郎は、1930(昭和5)年11月9日、82歳をもってその生涯を閉じました。

(東亜建設工業/会社紹介 浅野総一郎 より、引用・編集)
(参考サイト/浅野保険代理部 『浅野総一郎「九転十起の男」』)


◎浅野総一郎と高峰博士との関わりは、言うまでもなく渋沢栄一を介して始まりました。総一郎が浅野セメントを立ち上げた数年後に、渋沢、益田、安田らとともに『東京人造肥料会社』の設立に参加しているのです。


(記事作成:平成23年7月24日/文責:事務局)