高峰譲吉博士研究会

高峰博士ゆかりの地・人

8)ゆかりの人‥‥上中啓三

高峰博士の助手・共同研究者として、アドレナリンの結晶の抽出に貢献する。


略 歴

上中啓三 上中啓三は、1876(明治9)年、現在の兵庫県西宮市名塩に生まれました。長じて大阪のミッションスクールに入学し、化学と英語を学んでいます。その後、大阪・道修町(どしょうまち)の商店を経て、今の大阪大学薬学部の前身である大阪薬学校に入学し、三年後に国家試験に合格して薬剤師になりました。
 ついで東大医科附属薬学選科で、日本における薬学研究の泰斗といえる理学博士・長井長義教授から、2年余に渡り、直々に指導を受けました。(このことが後に、高峰博士の元でのアドレナリンの結晶化に大いに役立つことになります。)
 さらに上中は、東京衛生試験所に入り、足尾銅山鉱毒事件の鉱毒の検出などを手がけましたが、がんじがらめの「学閥」に嫌気がさし、退所してしまいました。
 上中は自由なアメリカで自分の実力を伸ばしたいと思い、長井教授からの推薦により東大理学部の塀和(はが)教授から紹介状を得て、1899(明治32)年、アメリカの高峰博士の元を訪ねたのでした。

 1900(明治33)年、高峰博士の元でアドレナリンの結晶化に成功し、その後1916(大正5)年に帰国するまで、上中はタカミネ・ファーメント社やタカミネ研究所の幹部として、高峰博士を助けています。

 帰国後も上中は、塩原又策が起こし、高峰博士を初代社長として迎えた三共株式会社(現・第一三共)で、タカジアスターゼやアドレナリンの国産化を任され、1933(昭和8)年、三共株式会社の監査役を最後に引退するまで、別の意味で高峰博士を支えたと言えるでしょう。また同時に、高峰博士は、アドレナリン結晶化の成功以来、陰ひなたなく自分を支えてくれた上中の面倒を最後まで見たということなのでしょう。

アドレナリン参照記事 → アドレナリンの発見

 パーク・デイビス社からの依頼により、アドレナリン結晶化の研究を始めていた高峰博士にとって、長井長義教授の元で修行を積んだ上中啓三の出現は、願ってもない助手(共同研究者)の登場であったといえましょう。
 上中啓三が死ぬまで公表しなかった彼の『実験ノート』によると、本格的な実験の開始は1900(明治33)年7月20日のことであり、同年11月7日には、『新晶体には、高峰博士の友人ドクトル・ウィルソンの提案によりアドレナリンと命名す…』とあります。
 アドレナリンの特許申請は、米国では1900年11月5日、英国では1901年1月22日になされています。1901年初頭より、パーク・デイビス社はアドレナリンのサンプルを全米の臨床医に送りましたが、その評価は素晴らしいものでした。
 1901年4月付けの『フィラデルフィア医学雑誌』は、「‥‥この新薬の出現は、医学上の新世紀を画す大発見と称すべきである。‥‥」と報じています。

(飯沼和正・菅野富夫『高峰譲吉の生涯—アドレナリン発見の真実』(朝日選書 2000)、飯沼信子『高峰譲吉とその妻』(新人物往来社 1993) より引用・編集)
(参照サイト/公益社団法人 日本化学会 → 組織と活動 → 化学遺産委員会 → 第1回化学遺産 → 認定認定化学遺産 第002号 上中啓三 アドレナリン実験ノート /写真提供も)


(記事作成:平成23年7月24日/文責:事務局)