高峰譲吉博士研究会

高峰博士ゆかりの地・人

9)ゆかりの人‥‥キャロライン・高峰

高峰譲吉の妻。アメリカ人。


キャロライン キャロライン・ヒッチは1866(慶応2)年、マサチューセッツ州生でまれました。父はエーベン(エベネイザー)・ヒッチ、母はマリー・ベアトリス・ヒッチ。
 両親の家はルイジアナ州ニュー・オーリンズにありましたが、母マリーは、キャロラインを夫の出身地、マサチューセッツ州で生んだのだそうです。そのせいか、本籍地はマサチューセッツ州になっているそうです。
 その後一家はニュー・オーリンズへ帰り、キャロラインはそこで育てられました。
 キャロラインが高峰譲吉と出会うまでの、彼女の生い立ちに関する資料はなく、現在不明のままなのは残念なことです。
 (今後の研究会の課題です)

 キャロラインと高峰譲吉の出会いは、1884(明治17)年のことでした。譲吉がニューオーリンズ万国博に、事務官として農商務省から派遣された時のことです。万国博期間中、譲吉はヒッチ家に下宿していたそうですが、そこでキャロラインと知り合い、恋に落ちたのでしょう。
 翌年譲吉は、後日キャロラインを迎えに来る事を約し、正式に婚約して日本に帰国しました。

 1887(明治20)年に譲吉が再訪するまで、キャロラインは待っていました。
 どんな気持ちでキャロラインは、東洋の紳士・高峰譲吉を待っていたのでしょう…。まだ日本人など、ほとんど知られていない時代のアメリカの事です。
 恐らく手紙のやり取りはあったことでしょうが、残念なことにそれらの資料も今のところ研究会では把握しておりません。
 ともかく譲吉は約束通りキャロラインを迎えに来て、二人はニュー・オーリンズのヒッチ家で、8月正式に結婚式を挙げました。キャロラインは20歳、譲吉は(満)32歳でした。

 高峰譲吉の妻として生まれて初めての異国、日本という東洋の国にやって来たキャロラインは、恐らく心細かったであろうと、容易に想像できます。新居は譲吉が渋沢や益田とともに立ち上げたばかりの、東京人造肥料会社の近くの本所で、決して立派な家ではなかったということです。
 翌年、彼女は長男・襄吉を、その翌年には次男・エーベン・孝を出産していますが、言葉も習慣も分らない明治という時代の日本でのこと、さぞ苦労が多かったであろうと思われます。譲吉は夜遅くまで仕事に励み、キャロラインはそれでもひたすら夫を助けていたと、益田孝が書き残しています。

キャロライン 日本に来て3年目の1890(明治23)年、一家は譲吉の醸造技術を認めたウイスキー・トラスト社からの招聘で、アメリカへ移住します。その時高峰博士が連れて行ったのが、丹波の杜氏技術を携えた藤木幸助でした。
 その後譲吉は、ヒッチ家のバックアップもあって、苦労の末成功を収めました(タカジアスターゼ、アドレナリンなど)。キャロラインは母国アメリカでも、高峰家が貧しい時は内職までして譲吉を支えたのです。
 成功した後も、高峰博士は日本のため、日米の親善のために、「無冠の大使」として、私財を投じて働きましたが、その陰にキャロラインの助力・献身があったことは言うまでもありません。

 しかしながら母としてのキャロラインは、夫・譲吉の死後二人の息子を亡くすという辛い目に遭い、決して幸福であったとは言えないようです。
 キャロラインは1954(昭和29)年、88歳の長命を全うしていますが、夫・譲吉と、二人の息子が眠るウッドーローンの墓地で、今は共に眠っています。


(記事作成:平成25年8月5日/文責:事務局)