高峰譲吉博士研究会

寄 稿(7)

高峰譲吉をめぐる逸話(その2)

石田 三雄(農学博士)/ 当NPO法人 理事



1.日米の牛肉の味くらべをした益田孝と高峰譲吉

 明治維新で、国際社会の仲間入りをした日本にとって最初に直面した問題は、経済力を一日も早く着けることであった。留学生が工業技術を勉強して帰国してくれてからといった悠長なことは言ってはおられなかった。その頃抜本的に改革する必要があったのは、目の前の伝統的な「農業」であった。
 高峰譲吉が米国ニューオーリンズの産業万博への日本の展示(世界にアピールする具体的な情報と品物)に関する3人の政府派遣員のリーダーとして活躍中に強い興味を抱いたリン鉱石を、帰国に当たって手に入れて1884年に持ち帰って人造肥料会社を起業したことは、かなりよく知られている。
 この起業に出資を仰いだ当時の財界の二人の大物は、銀行家の渋沢栄一(1840-1931、子爵)と三井財閥の大番頭、益田孝(1848-1938、男爵)であった。先ず、益田が高峰に出会う。その頃の状況を益田の自叙伝 (1-1) から抜粋して描いてみると概略次のとおりである。
 益田は井上馨(勇吉、聞多、1836-1915、侯爵)とその頃、熱心に日本の農業改良論をたたかわしており、化学も学んだことのある益田は、火山灰土の多い日本列島ではリン酸肥料が重要であることを充分理解していたようで、高峰と会うやいなや、たちまち肝胆相照らす間柄となり、すぐに持論を展開している。即ち、燐を使わなければ、この国は潰れてしまう。しかし燐鉱石をそのままではいけない。硫酸に溶解して過リン酸石灰というものにして使うのである。俺は北海道に硫黄の山を持っているから硫酸はお手の物だ。渋沢栄一に相談しようじゃないかと早速、高峰を渋沢に紹介した。

 井上は、西郷隆盛から「三井の番頭さん」と皮肉られていたが、三井財閥の最高顧問として活躍した長州(山口県)出身の明治の傑物であった。明治のジャーナリズムを牽引した徳富蘇峰によると、井上は官業反対論者で、彼は徹頭徹尾民間が出来る業をお役人がやる事は非能率で民間の業を圧迫妨害すると考えていた合理主義者であった。彼は後に、第4次伊藤内閣がつぶれた1901年の夏に組閣の大命を受けたが、入閣を懇請した渋沢栄一に固辞され組閣を辞退している。渋沢がその能力を発揮しなければ、国家を運営して行けなかったのであろう。
 東京の深川の「東京人造肥料会社」(1887年設立)が稼働した初期の状況は、過リン酸石灰の効果が高い火山灰土の多い関東・東北地方に良く売れた。関西は土地に自然に燐が含まれているので、肥効は顕著でないため、あまり売れなかった。関東では、最初は茨城県に売れた。肥料としては燐だけでは駄目で、窒素が必要だということで、窒素肥料を配合した「完全肥料」というものを作った。当時空中窒素固定法はまだ発明されていなかったので (1-2) 、全国から女性の髪の毛、屠殺場の血や臓器、モスリンや羅紗とか何でも構わず買い集めて、それを硫酸で煮て窒素分を取り出して、それに過リン酸石灰を混合して「完全肥料」といって売り出したのである。
 米国からの燐鉱石の輸入は高価についたので、後にはオーストラリアへ行く途中のOcean Islandという島 (1-3) に産するアホウドリの骨の化石からなる燐鉱石を輸入している。

 さて本題の「牛肉の日米うまさ比べ」に入ると、親戚のように親しくなった益田が、あるとき高峰に“日本の牛ほど旨い肉は無い、西洋の牛はとても日本の牛には及ばぬ”という話をしたところ、高峰が、それはアメリカの本当の旨い牛を食ったことがないからだ、今度アメリカへ行ったら、本当に旨い牛を食わせると言う。よろしい、ご馳走になろうと言って賭けをした。
 時は流れて、1907(明治40)年、益田が渡米した時、高峰がニューヨークの一流のレストラン (1-4) に益田を招待して、これが本当に旨いアメリカ第一の牛肉だ、やってごらんなさいと言った。食ってみると、口に入れた時はなるほど旨いが、だんだん咬んでいると糟が残る。どうだ高峰君、この最初口に入れた時に旨いのは、コックがいろいろの物を使って外から付けた味だ、本当に良い牛肉は咬めば咬むほどうま味が出てくる。悪い牛肉は初めは旨みがあっても、咬んでいるとだんだん味がなくなって、ぽくぽくして来て咽を通らぬ、日本の良い牛肉は、咬んでいるうちに、みな咽を通ってしまって糟などは残らぬ、どうだこの牛肉は糟が残るだろうと言うと、高峰も、なるほどそうだと言うて、とうとう兜を脱いだ。


◇  ◇  ◇

 2014年の現時点、安全保障問題も絡んで日米間でしのぎを削っているTPP交渉、食肉はアメリカの絶対に譲れない品目の1つに違いない。我々日本人がいわゆる四足(よつあし)を日常食べるようになって以来、先祖が知恵をしぼって「おいしい牛肉」を作ってきたことに、もう少し敬意を表して、生活に少しゆとりのある方々は、その「おいしい牛肉」を意識してもう少し沢山食べることで飼育業者を応援してはどうかと考えるのは、筆者一人ではないだろうと、祈るような気持ちでいる今日この頃である。(歴史記述として敬称を略させていただいた)


《引用文献》
 (1-1) 長井実編 『自叙益田孝翁伝』中公文庫 1989
 (1-2) ドイツのBASF社のハーバー・ボッシュ法での窒素肥料の製造の開始は、1913年。
 (1-3) 別名Banaba Island、東経約169°、南緯0度51分、Nauru島の東
 (1-4) この時期、高峰にはパーク・デイヴィス社からタカジアスターゼとアドレナリンの莫大な特許料、
   技術料の収入があったので、超一流のレストランであったと考えられる。


2.明治の俊秀と共に高峰譲吉が学んだ塾・致遠館の名前の由来

 佐賀藩が長崎から建設地を借用して1867年に創立した藩校の“致遠館(ちえんかん)”という名称は、どうして付けられたのだろうか。その由来を長年探し求めていたが、まだ文献資料を手に入れていないのをいつも残念に思っている。

 最近ひょっとするとこれかもしれないと気づいたことがある。若い頃、吉川英治著『三国志』の「桃園の誓い」の次に展開される「三顧の礼」に胸を躍らせた場面で颯爽と登場する蜀の宰相、天才軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)に最後までひきつけられて、読み終わったが、偶然その孔明が子孫に残した「家訓」に出くわした。それは勿論漢文で、それを読む能力がないのだが、解説してくれる専門家によると、次の通りである。


遺訓蜀の宰相諸葛孔明が一族の子孫に残した遺訓(2-1)

「夫君子之行、静以修身、倹以養徳。
非澹泊無以明志、非寧静無以致遠。
夫学須静也、才須学也。非学無以広才、非志無以成学。
滔慢則不能励精、険躁則不能治性。
年与時馳、意与日去、遂成枯落、多不接世。
悲窮盧守、将復何及。」

「それ君子の行ひは、静以て身を修め、倹以て徳を養ふ。
澹泊にあらざれば、以て志を明らかにすることなく、
寧静にあらざれば、以て遠きを致すことなし。
それ学は須く静なるべく、才は須く学ぶべし。
学ぶにあらざれば、以て才を広むるなく、
志あるにあらざれば以て学を成すなし。
滔慢なれば則ち精を励ますこと能はず、
険躁なれば則ち性を治むること能はず。
年は時と与に馳せ、意は日と与に去り、
遂に枯落を成し、多く世に接せず。
窮盧を悲しみ守るも、将た復た何ぞ及ばん。」

 第3行目(漢文2行目)の「寧静にあらざれば、以て遠きを致すことなし。」という文章の中に、「致遠」という言葉に出会った。これだ!とその瞬間に思った。
 遠くに向かって立てた大きな目標を達成するには、心静かに努力を続けなければならないよ、と子孫に言い聞かせている。ばたばたしたり、人を押しのけたり欺いたりするような行動では、いくら努力したと言っても、實(みのり)は無いぞ、と諭している。


◇  ◇  ◇

 致遠館という藩校を創立し、フルベッキを迎えて将来を担う藩の俊秀を育てようとした佐賀藩の重臣達は、きっと漢籍に通じていただろうから、この推測はとんでもない間違いでは無いように自負しているが、学識深き諸兄姉のご批判をいただきたいと思っている。この藩校は高峰譲吉の他にも大隈重信、小村寿太郎といった明治の偉人を多く輩出している。(歴史記述として敬称を略させていただいた)

 ここまで書いて高峰譲吉博士研究会事務局に提出してから2週間ほど後(5月末)に、大学のクラス会で京都に遊んだ。集合場所に早く行きすぎて、持て余した時間に同志社大学のキャンパスを歴史を感じながら散歩していて、ふと出くわした建物に「致遠館」という表示を見つけて、あっと驚いた。早速事務局に行ってこの名称の由来を尋ねたところ、同大学出版の分厚い冊子(2-2) の購入を勧められた。
 それによると、この「致遠館」は、同志社大学が文部省の設立認可を受けて1912(明治45)年4月に開校された後に初めて建てられた大学専用の校舎で、アメリカからの援助でなく、校友など日本人の寄付を以て建てられた創立以来最初の悲願の建物であった。建設完了は1916(大正5)年で、佐賀の「致遠館」から約半世紀後のことで、夏目漱石が死去した年でもあった。
 命名者は徳富蘇峰で、今も彼の手になる扁額が入口に掲げられている。蘇峰は、1911から1916年まで同志社政治経済部設立委員長を務めている。買い求めたこの冊子に、命名の出典は私の推測と同じ諸葛孔明の遺訓だと記述されていた。

 さらに時間が若干経過してのことである。加賀藩の歴史を調べ直していて、この文化文明の高い藩にも「致遠館」という教育機関があったことを確認したのである。1869年1月、当時の藩の英学所を壮猶館内に移設して、それに「致遠館」という校名を付けたのである。それはやがて七尾に移設され、パーシバル・オズボーンを教師に迎え「七尾英学校」として藩の英学の拠点となり、歴史に名を残した (2-3)。この「致遠館命名」の由来を書いた加賀藩関係の資料は未だ見つけ出していないが、「フルベッキの長崎致遠館」に関する高峰達からの情報によるものかもしれない。


《引用文献》
 (2-1) Googleで「拓本諸葛亮誡子書」を検索。
 (2-2) 河野仁昭著 『キャンパスの年輪、同志社今出川校地』、同志社大学出版部 (1985)
 (2-3) http://ettyugakumonshi.seesaa.net/article/121755683.html


3.原籍を金沢に残した祖国愛の人・高峰譲吉

 高峰譲吉は、ワシントン軍縮会議に出席する日本全権団のために日米の橋渡し役として奔走し、持病の心臓病をおして無理を続けた結果、1922(大正11)年7月22日にニューヨークで68年の生涯を閉じた。全米の新聞はその日のうちに号外を発行して博士の死を報じ、翌朝の新聞の第1面には、大きく博士の大きな功績をしるし、日本の生んだ偉大な科学者と称えて、その死を悼んだ。
 3日後の25日には、ニューヨークのセント・パトリック教会で荘厳なカトリックの葬儀が執り行われた。多くの日米の名士が参列し、600名に近い会葬者は、教会からあふれるほどであった。
 その時、妻のキャロラインは、会葬者に感謝の言葉を述べ、なお続けて、夫について次のように語り、涙に潤んだ夫人の言葉は人々の胸を強くうったと記録されている。
「譲吉は最後まで日本を愛し、日本を慕い、日本を懐かしく思っておりました。どうぞ皆様、君が代の合唱で譲吉を天国に送っていただきとうございます。」

 高峰は、いずれは幼少時代を過ごした金沢に帰り、静かに余生を送りたいと意思表示をしていたが、世話になった渋沢栄一、益田孝らが「高峰なしには日米友好関係は維持できない、どうかニューヨークに留まってほしい」という説得に抵抗できず、頑張り通したことが死期を早めたと言われている。

商標

 上図の左の商標登録証をご覧いただきたい。出願はパーク・デイヴィス社がタカジアスターゼを発売した1895年から7年後の1902(明治35)年である。出願者本人(高峰譲吉)の住所は、「原籍」が「金沢市梅本町3番地」となっている。ニューヨークの住所は、「寄留」と書いて、自分は日本人であるという意思を表明している。

 高峰譲吉の父の住居が金沢にあったことは、良く知られている。それを示す文書として、父精一が1883(明治16)年に富山病院に就職した時に自分で提出した履歴書が残されている。それに示されている住所は上の右図の通りで、番地が1番違うが本籍地は金沢の「梅本町4番地」である。

 高峰の1世代前の先輩科学者、フランスのルイ・パスツール(1822-1895)は、世界中の科学者に示唆に富んだ強い文章や言葉を残しているが、その中では二つの文章が最もよく知られている。その一つは、
 「観察の科学では、幸運は用意の出来た才智にしか微笑まない。」である。
 この名言は、加賀藩前田家の御典医であり科学者でもあった蘭方医父精一の手元で幼少期を過ごし、長崎、大阪、東京と当時最高の学問の場で基礎をつくり、選ばれて産業革命の中心であったグラスゴーに留学して最も高いレベルの科学を学んだ高峰が、丁度猛スピードで近代化しつつあった米国に定住して、世界最先端の仕事を展開したことに最も良くあてはまると言えるのではないだろうか。

 もう一つのパスツールの名言は、1888年11月14日に、「パスツール研究所開設記念式典での演説」の中の「科学に祖国無しといえども科学者は祖国を持っているのであります。彼の業績が世界中に及ぶとしましても、その成果を持ち帰るべきはこの祖国に対してであります」という1節である (3-1)
 高峰の発明したバイオテクノロジーの手法を活用しない先進国は今や皆無いだろう。例えば、糖尿病患者にとって命とも言える医薬「インスリン」の製造は、高峰の開発したバイオテクノロジーと遺伝子工学との組み合わせ無しには今や考えられない。
 人類が最初に化学物質として手にしたホルモン・アドレナリンを薬として活用していない国は、おそらく皆無であろう。米国では、ピーナッツを食べてアナキラフシーで瀕死となった多くの学童の命は、アドレナリンの注射で救われている(3-2)。この例の様に、パスツールの名言通り高峰の業績は見事に世界に広がっている。
 しかし、高峰は特許権を取得し、製造販売を許諾した米国パーク・デイヴィス社に対して最初から、「日本ではその権利を行使しないこと」という条件を付けている。高峰は、とうとう祖国で永眠できなかったが、自分の挙げた成果はきちんと祖国日本に持ち帰っている。


◇  ◇  ◇

 この高峰の祖国に対する思いは、成人するまでの父母の愛情が原点になっていると筆者は思う。それを語る逸話を1つご紹介しておきたい。英国への官費留学が決まった後、父の家での新年会の時の家族での漢詩のやりとりである (3-3)


  • 譲吉の詩:東学西遊十五年 久望郷里物情遷
         今朝椒酒陪親酌 偏覚鱸魚鱠味鮮

    父精一の返歌:欧州に行くを送る

     老い去りて猶 瑞年を迎うるを欣ぶ

     鶯児(おうじ)谷を出て喬く遷(うつ)ることを試む
     欧州に留学して勉強の際
     憶うなかれ蓴羮(せんかん)鱸鱠(ろかい)の鮮



  •   その大意

    年老いたけれどなおめでたい年を迎えたのをよろこぶ。
    鶯の子が谷を出て高く飛び移ろうとしている
    欧州に留学し これから勉強する際に、
    日本の食物の味を恋しく思ってはいけない。

(歴史記述として敬称を略させていただいた)

《引用文献》
 (3-1) 長野敬編 『科学の名著 10 パスツール』、p. 351、朝日出版社 (1981)
 (3-2) 石田三雄著「アドレナリン(Adrenaline)について」『救急救命』 Vol.16, No. 2、p14,
     (2014)
 (3-3) 岩倉規夫著 [高峰精一とその漢詩]


4.清酒は海外展開可能・高峰博士の先見性

 「清酒は衰滅すべき性質のものでない」「清酒は海外輸出の見込みがある」「清酒の前途は有望である」「醤油も有望である」という四つの小見出しからなるインタヴュー記事が業界雑誌『醸海』の明治35年(1902、日露開戦2年前)の第2号(p.8〜11)に掲載されている。この年に一時帰国した高峰博士の超多忙スケジュールの中で見つけた短時間の帝国ホテルでの取材であった。以下その主要点を順次現代語にして紹介したい。

 「日本には現在約3万の醸造業者がいるが、国内消費にあぐらをかいて安穏としている。一方、衣、食、住の洋式化の進展同様、ビールやウイスキーなどが着々と侵入してきている。これでは将来日本酒の運命が危うい、衰滅してしまうのではと心配する人があるそうだが、日本酒は決して左様に衰滅するような性質のものではない。
 冠婚葬祭にはじまり娯楽、慰労など、みんな清酒の多少の助けによってコミュニテイが円滑に進むよう、我が国の先人が営々として磨き上げてきた深い味の好飲料で、これは廃れてしまうようなものではない。とりわけ清酒のアルコール含有量は丁度ビールとウイスキーの中間で、多くの人には飲み加減の良い物である。そうであるから、当業者等が奮発して、時勢に遅れないで人文の進歩に伴ってその品質などを改良して、飲んだら頭が痛くなるような品質の製品を無くし、ちょっと腐敗している品を安売りするようなことをしなかったならば、清酒は衰退どころか、かえってますます盛んになってくると思います。
 しかるに、只々運命が危なくなって来ただの、衰退はしまいかなど、ソンナ弱音を吐いているようでは、清酒でなくとも何の事業でも衰滅してしまうのは当たり前のことです。これはその物の性質上から衰滅するのではなくて、人が自らそのものを衰滅させるというものです。やり方いかんで、ますます清酒は盛んになると思います。

 西洋人は清酒は飲めない、とても西洋には向かないなどと断念しているのは、そもそも間違っています。たまたま一、二度少しばかりの清酒を西洋に持って行って、多くの国の人が蟻のように集まっている世界の大都会に行って、方角もろくに分からない、売り捌き方の方法も不案内で(例えば奥州、九州の山奥の人が、俄かに東京へでも商売に出て来た様に)、その上未だ清酒を口に入れたことも無い西洋人に、俄かに販路を広めようとしたって、最初からそう上手くゆかないのはむしろ当然のことではないでしょうか。そういう実験をして、どうも西洋人にはとても清酒は望みが無いなどと、すぐに断念するのは、あまりにも軽率な話ではないですか。結局、食物などと言うものは、とにかく慣れてこないと飲食しにくいもので、早い話が、往年、我が国へビールがはじめてやって来た時のことなど考えてみると大いに参考になることもあるでしょう。初めて我々がビールを口にした時はどんな味がしたでしょう。苦(にが)くて苦(にが)くてとても飲めたものではなかった。煎じ薬でも飲んだような気がしたが、それがだんだん慣れてくると、今日ではそれを好んで飲むようなことになったのです。ですから、品質の改良をし、またそれぞれの輸出先にふさわしい販路を広めたら、あながち西洋には向かないということは無い。また朝鮮半島や中国その他の東洋の国、シベリア等にも販路の望みがある。今日、海外の所々に日本人が移住生活している者が少なくない。その人たちに日本酒を送って、外国人への販路を広めて行くのも一つの手段であると思う。今度帰国の途中でも、シンガポール、ホンコンその他東洋のいたるところで、下層階級生活をしている日本人がいるのを見ました。
 今回私が帰国のためイタリアのゼノアからドイツ船に乗ったのだが、船中で日本酒を注文したら、無いと返事するので、私は“それはおかしいではないですか。いやしくもドイツと日本の間を航行する客船でありながら、日本酒が無いと言うのはいけませんね。これからは日本酒を備えておくようにしなさい”と注意しました。やがて船が横浜に着いたので、その船の船長はじめ主な役員のドイツ人4〜5名を案内して、上野、浅草などを見物させた上で、紅葉館(注:明治・大正・昭和期に東京の芝区芝公園に存在した会員制の高級料亭)で、日本食で饗応した後、船中に日本酒を用意した方が良いと話して日本酒を飲ませましたら、これは面白い物だ、これからはこれを船中に用意するようにしましょうと言っておりました。日本が開国して以来すでにかなりの年月が経過し、客船も多く来るようになっているのに、日本酒を船内に準備している船が無いのは、我が国の清酒業が客船に売り込む努力をしていないからだと申しあげても良いでしょう。この分野の方々のご努力を切望します。今度帰国して聞いたところでは、いよいよ官立の醸造試験所の設立も議会に提案されているようですが、これが出来たら日本の醸造業も大いに発展することでしょうが、何事も初めが肝心ですから注意深く完全な成功を収めるようにしたいものです。そうなれば、日本酒の前途も有望なものであることは疑いないです。
 それから、醤油も有望です。日本の醤油は美味であり、滋養分も含んでいるので、西洋各国では、一度これを使ってみた人は、大抵これを調法がって使っています。昨年グラスゴーで開催された博覧会でも評判が良かったようです。他にもドイツでもフランスでも需要者が追々増えてくる望みがあるそうです。また米国でも、かなり販路拡張の望みがあります。現に私の妻の妹の家では、わざわざサンフランシスコから持って来て使用しています。その子供たちは、パンに醤油を付けて喜んで食べている有様ですから、上手くやれば欧米各地に醤油の販路を拡張する見込みが随分あります。日本の醤油は将来なかなか有望な醸造物であると思います。」


◇  ◇  ◇

 今から112年前に、日本酒の今日の姿を描いて、日本人に多面的な努力をうながしている高峰博士の先見性は、現代人が範とすべき見識であり、まさに「目から鱗」であると思います。高峰さんは、「俺様のこの意見は、ちょっと早すぎたかな、しかし日本人が営々と努力したその成果が、どうやら「日本食(ユネスコの無形文化遺産)」、「すし」などが世界文化の仲間に入って、品質、味が共に優れた日本酒が最近よく外国に売れるそうだってね」と泉下でにんまりされているかもしれないと思って、筆者もにんまりしている次第です。

 最後に、最近の日本酒の海外展開の様子を紹介しておきます。
 1.寿司よりチーズが日本酒に合う。
 2.日本酒の香りを楽しむのにワイングラスが最適。日本酒はワインリストに収載。
 3.お酒は温めて飲む方が好まれる。
 4.最大の輸出国アメリカには、ポートランドのSakeOneをはじめかなりの酒蔵がある。
 5.オーストラリアから日本に日本酒が輸出されている。
 6.ロンドンでは、日本酒の「ソムリエ・コンテスト」が開催されている。


(歴史記述として敬称を略させていただいた)

(作成:平成26年7月14日/文責:石田三雄)