高峰譲吉博士研究会

寄 稿(10)

外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本 (その2)

石田 三雄(農学博士)/ 当NPO法人 理事



 前号(その1)で、フルベッキの長男ウィリアム(愛称ウィリー)が、長崎において、感受性の豊かな青年時代の彼の友達の武士の息子達から、ごく自然に武士道、礼儀などが身に着く教育環境の中で17歳まで成長して行ったことをご紹介した。そのごく僅かな時期が日本で極めて特殊で優れていたかを、国民的作家司馬遼太郎さんは、『歴史の中の日本』の「河井継之助」という一節の中で次のように明快に述べられている。

 「幕末期に完成した武士という人間像は、日本人が生みだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。しかもこの種の人間は、個人的物欲を肯定する戦国期や、あるいは西洋にうまれなかった。サムライという日本語が幕末期からいまなお世界語でありつづけているというのは、かれらが両刀を帯びてチャンバラをするからではなく、類型のない美的人間ということで世界がめずらしがったのであろう。また明治後のカッコワルイ日本人が、ときに自分のカッコワルサに自己嫌悪をもつとき、かっての同じ日本人がサムライというものをうみだしたことを思いなおして、かろうじて自信を回復しようとするのもそれであろう。」

ウイリーのことを思い出しながら、彼の弟、三男グスタヴへと読み進んでいただければ幸いです。
最後に「Guidoは「グイド」か「ギドー」か」という 短い1節が設けてあるので、そこだけ先に読んでいただいた方が、ご理解していただきやすいかと思います。> ◎ Guidoは「グイド」か「ギドー」か

 フルベッキからの世代関係をまとめたのが下の表で、太字の名前はこれから本編に登場する5人を示す。
フルベッキ一族


【2b 】グスタヴ・ヴァーベック(略称/三男グスタヴ)

グスタヴ 長男ウィリアムには、同じ長崎で生まれた6歳年下の弟(三男)グスタヴがいた。彼は兄と同様に武家社会の中で育った後、パリに渡って芸術を学び、ヨーロッパの新聞社数社でイラストと漫画の仕事を始めた。やがて彼は1900年にニューヨークにやって来てHarper社のような雑誌社のイラストを担当し、また新聞に連載漫画を描くようになった。
 グスタヴの才能は、やがて歴史に残る大変ユニークな芸術となって花を咲かせることになる。それは「The Upside Downs of Gustave Verbeck」と呼ばれる漫画であった。下図はその代表例として、漫画の歴史書にしばしば掲載されているという。
漫画
2枚は上下反転されているだけで、全く同じ絵(21)

 これでは皆さんはそれほど驚かれないかもしれないが、次の作品(下の絵)を見て彼に敬意を表さない方は少ないであろう。6面で構成された物語のセットを、上下反転させると全く違った画で構成されたもう1つ別の物語となるのである(22)。自分でトライしてみると、彼の知能が容易なレベルでないことに気付く。こういう漫画(The Upside Downs of Little Lady Lovekins and Old Man Muffaroo)をニューヨーク・ヘラルド紙に、彼は実に16カ月間で64回連載した。
漫画
 1920年代に入ると三男グスタヴは彫刻と絵画に集中するようになり、1937年にニューヨークで没した。



【3b 】ウィリアム・ジョーダン・ヴァーベック(略称/孫のウィリアム)

 世代が下がってフルベッキの孫の一人は、祖父が大きな功績を残した日本を相手に激烈な戦いをしなければならいという、数奇な運命を持つことになった。
 長男ウィリアムが得た3人目の男の子は1904(明治37)年1月20日、長男ウィリアムが校長をしているミリタリースクールのあるニューヨーク州シラキュース市マンリアスの町で生まれた。父から「ウィリアム」、母から「ジョーダン」の名をとって、ウィリアム・ジョーダン・ヴァーベック(William Jordan Verbeck)と命名された彼は、長じて有名なウェストポイントの陸軍士官学校を卒業し、1927(昭和2)年6月に歩兵少尉に任命され職業軍人としての第一歩を踏み出した。
アッツ島 太平洋戦争前、孫のウィリアムはフィリピンのザンボアンガ、東京の米国大使館などでの勤務のほか、マンリアスの父のミリタリースクールでの軍事科学および作戦の授業も担当していた。その後も要職にあって活躍していたところ、ついに日米開戦となり、彼は1941(昭和16)年から3年間、アラスカ作戦本部に配属され、1年間は指揮官を務めた。1944年7月にニューギニアの第10軍団に転属、フィリピン群島のレイテ、ミンドロ、ルソンそしてミンダナオの会戦に参戦した。

アッツ島に上陸する米兵=エレメンドルフ空軍基地蔵(20)▲

 アッツ島における壮絶な戦い、そして悲惨な玉砕までの日本軍将兵の苦労は詳細に書き残されているが、涙なくしては読めないものである。しかしその反面、記録に残る次のような事実を認めることも、その悲しみを一層深くさせるのである。

 アッツ島への米軍上陸15日目の1943(昭和18)年5月26日の記録では、「日本軍捕虜を捕まえろ」と師団長ランドラム少将から命令されていたアッツ島上陸軍の情報将校ファーガソン中佐が、日本軍の捕虜について次のように語っている。
 「日本軍捕虜は司令部にとって計り知れぬ価値がある。日本兵は捕虜になるなど絶対に考えられなかったので、捕えられたら話をするなとは全然教えられていなかった。それ故よくしつけられた日本兵は命令には従順で、どんな質問にも答える。自分の知識が自慢で、実際、自国民の利益に反するのに、知っていることを喜んで話す」
 この談話の記録は孫のウィリアムによるもので、「第7師団記録『アッツの戦い』W.J.フェアベック中佐」と紹介されている(24)。それは彼が情報将校として着実な仕事をしていたことを示している。
 驚くべきことであるが、捕虜が味方の軍事情報を敵に話すという事実は、この時点から遡ること38年前、中国東北部(満州)における日露戦争での日本騎兵隊において、「日本軍には不名誉な捕虜はありえない」という建て前から、万一捕虜になった場合の訓練が全くなされていない騎兵に多く見られ、司令官の秋山好古を大変悩ませている。この事実から考えて、日本軍ではそれ以後も十分な教育を行うことなく、真珠湾に突っ込んでいったことは明らかである(25)
 この方面から転戦した孫のウィリアムのレイテ島での活動の詳細は、大岡昇平の代表作『レイテ戦記』(26)に記述されている。投入日本軍84,006名の94%が戦死するという激戦であったが、熾烈な戦闘中のある日、突然第10軍団長サイバート中将が21連隊長を解任し、後任に24師団の情報将校W. J.ヴァーベックを任命した。師団長同席での異例の処置であった。この記述の後、著者大岡は簡潔に新連隊長(孫のウィリアム)の経歴を紹介し、「祖父の葬儀が日本の国葬の規模で行われ、近衛兵が棺を守ったことを忘れなかった。家伝で日本語を解した。戦後24師団は朝鮮戦争(1950年勃発=筆者注)に参加したから、1950年大佐(孫のウィリアム=筆者注)は東京へ来た。GHQ(連合軍司令部=筆者注)の意向に反して靖国神社に参拝し、元第一師団長片岡中将に会って、第一師団の善戦を賞賛した。(中略)その頃商人になっていた片岡董(ただす)に、上官に対する礼を取って中将を感激させた。(中略)今日『第一師団レイテ戦記』がレイテ戦記の中で最も整い、私がいまこれを書けるのも大佐のお蔭である。しかし戦場にあっては、ヴァーベック大佐は容赦のないウエストポイント出の将校であった」と続けている。
 戦勝国の軍人が、敗戦国の高位の軍人に出会った時、前者の方から階級相応の礼をとるという風習は、日露戦争の日本海海戦で降伏したロシア第三戦艦戦隊司令長官ネボガトフを収容する時に、日本連合艦隊作戦参謀の秋山真之がこの敗将に対して相応の敬礼をしたという事実からも、それは往時の国際的モラルであったことを示している(27)
レイテ島 21連隊長の孫のウィリアムが、最も激しい戦闘のあった「リモン北峠の戦い」が終息した日に書いた報告書「敵戦闘方法」も、大岡によって全文和訳され掲載されているが、その内容は非常に詳細で、両軍ともに緻密冷静に作戦を展開したこと、「バンザイ攻撃」といわれる叫喚的ヒステリー的攻撃は決して行われなかったこと、日本軍の知恵に感心したことも正確に報告している。祖父から教えられ、身についていた武士道の神髄が感じられる内容である。

フィリピンのレイテ島リモン峠をはさんで対峙する日米両軍(28)▲

 この熾烈な戦闘の後、ミンダナオ島コタバト付近の上陸を受け持たされた孫のウィリアム大佐は、リモン峠でかすり傷一つ負わなかったのに、上陸後の負傷者第1号となってい る(26)
 第2次大戦中の熾烈な最前線の闘士として孫のウィリアムは名声を得ているが、受賞した勲功章(Legion of Merit)は、アリューシャン列島からの日本軍の撃退を称賛するものであった。彼は、当時全く情報の不足していたこの列島に個人的に偵察隊を送り込み、どの島が日本軍に占拠されているかを調査している。この列島における彼の勲功は、彼が日本語と日本人の習慣を熟知した上で立てた作戦の成果だが、日本軍の裏をかいたものとして高く評価された結果と言われている。
 日本語を話すことはもちろん、読み書きも不自由でなかった父ウィリアムに、幼少から教わった日本語と日本に関する知識をフル活用して対日作戦を立てていたことに、日本近代化の教師であった祖父フルベッキは、青山墓地の泉下にあって悲痛な思いを抱いていたに違いない。運命と言えばそれまでだが、戦争のもたらす不幸はこのような場面でも記憶されるべきではないだろうか。
 孫のウィリアムは太平洋戦争後も数々の勲功を残し、数え切れないほどの勲章を授かり、自らも「The William Jordan Verbeck Award」を制定し「Verbeck Bowl」と称する金杯を授与している。孫のウィリアムはこのように、職業軍人として父の教えた「名誉、愛、義務」の信条を貫いて充実した61歳の人生を閉じ、アーリントン墓地に眠っている(29)
フルベッキ一族
1959年のフルベッキ一族の集まり。右端が孫のウィリアム夫妻(23)



【6】ギドー・フリドリン・フルベッキIV(略称/ギドー四世)

 最後に登場していただくのは、フルベッキの曾孫のそのまた孫のGuido Fridorin Verbeck Ⅳさんである。この名前は初代のフルベッキから6世代引き継がれているが、夭折された方もあり、Ⅳ(四世)を名乗っておられる化学者である。現在、米国ノース・テキサス大学の化学科教授で、最先端の化学構造機器解析の分野で活発に発信されている(30)
 この稿を起こすに当たって、フルベッキ四世に特にお願いして、一族の歴史についてエッセイを書いていただいた。原文は英語で、和訳は筆者。


※ ※ ※

「ギドー・ヘルマン・フリドリン・ヴァーベックの生涯と業績は、我々一族において6世代を経ても、よく伝えられ理解されている。私は、ギドー・フリドリン・ヴァーベックの第6世代で、日本とアメリカ両方の歴史のインパクトを理解できるようになった年頃から、私は名づけられたままに自分の名前を誇りとしている。私達の家系における日本との歴史的つながりは、我々の世代まで年代順に整理され伝承されている。
 この歴史は、よく知られた教育者であり、オランダ改革派教会(訳者注4)の宣教師で、現在東京に葬られているギドー・ヘルマン・フリドリン・ヴァーベックから始まっている。明治時代に外国人として、西洋文明の教育にあたった彼の指導は、誰にも劣らないものであった。彼は、設置当初の文部省に対するアドヴァイザー、東京帝国大学教頭、薩摩辞書(最初の英和辞書)の編集者(訳者注5)、そして明治政府の顧問であった。ギドー・ヴァーベックは旭日章を受章したが、それは我々の自宅に保存されていて、一族の誇りの偉大な原点となっている(訳者注6)
 彼の息子は、「日本の白人男児第一号」として知られ、『Time』誌の記事にもなった。彼の母語は日本語であり、大変驚くことに、アメリカ合衆国生まれの日本人にもしばしば日本語で話しかけた。ウィリアム・ヴァーベック将軍は、ニューヨーク州国防軍副長官にもなり、終始日本の友人であった。彼の息子は、彼の遺志を引き継いでいる。
 もう一人のギドー(一世)の息子、ウィリアムの弟グスタヴ・ヴァーベックは、大変有名な芸術家であり漫画家であった。彼はアメリカの漫画家・イラストレーター(挿絵画家)として、はるかによく知られているが、彼の西洋芸術に対する最も重要な功績は特殊印刷技術の開発で、それは錫板上で作成した原画をライス・ペーパーの上に転写する方法であった(当時、このタイプの印刷を可能にしたのは、日本製の紙しかなかった)(訳者注7)。私は、今もこの印刷品を持っており、一族の中には他に数点が保存されている。
 ウィリアム・ヴァーベックの息子であり私の大叔父であるウィリアム・ジョーダン・ヴァーベック将軍(ビルという愛称で知られている)は、第2次世界大戦前の1920年後半から1930年前半、駐日大使館に勤務していたことがある。
 本稿を閉じるにあたって、私は2012年6月にニューヨーク州マンリアスに巡礼する。それは、一族の安息の地への、そして我々一族が保ってきた日本への親愛を永遠に維持し一族の歴史を記念する日本庭園への訪問である。ウィリアム・ヴァーベックは、少年男子のためのマンリアス校を創立したが、それは現在ペブル・ヒル校と併合され男女共学の私立校として存続している。そこには彼が造園した素晴らしい日本庭園が今日も残っている。そこにはヴァーベックの4世代が埋葬されていて、我々一族の誇りの原点となっている。繰り返すが、これは日本とアメリカの歴史の両方にとっての偉大な地であり、すべての世代で繰り返され、私の子供たちによって引き継がれていくだろう。私の家族に対する日本の影響は、我々を素晴らしいものとなし、そして記憶されてゆくであろう。
  ノース・テキサス大学化学科教授
   ギドー・ヴァーベック
フルベッキ一族
(左)ギドー・フリドリン・フルベッキIV=同氏提供、(右)少女は同氏次女(第7世代)のイザベラちゃん=2012年の家族総会で

一族の2012年度「家族大集合」
 2012年6月9日、ニューヨーク州シラキュース市にあるマンリアス・ペブル・ヒル校(マンリアス・ミリタリースクールの発展的後身)の卒業式が開催された。卒業生の中にフルベッキの第6世代の女性アレキサンドロさんがいた。このおめでたい機会に、長男ウィリアムの記念館において、恒例のフルベッキ一族の懇親総会が開催された。その模様をニューヨーク州立大学名誉教授・中津川博士と同氏の親友でこの学校の卒業生でもあるジョン・エリス氏が写真に撮って提供して下さったので、数葉を下に掲載したい。
 2012年6月9日、第6世代のAlexandro Verbeckがマンリアス・ペブル・ヒル校を卒業する機会に開催された、フルベッキ一族の家族大集合でのスナップ写真である。
世代別人員 フルベッキ夫妻来日以来150年を超えた現在も、強いきずなで結ばれているフルベッキ一族の世代別人員を、ここに表にまとめておこう。
 最後に、貴重な写真、資料を提供していただいた第6世代ギドー・ヴァーベック博士、シラキュース市の中津川勉博士およびジョン・エリス氏に心からお礼を申し上げて本稿を閉じたい。

*歴史記述として敬称を略させていただいた。


フルベッキ一族
フルベッキ一族
(1) 卒業証書授与式。白いガウンに白い帽子は女子、赤は男子学生
(2) フルベッキ第4代のAnnah H. Verbeckの息子 Howell M. EstesⅡが卒業式開会の挨拶。彼は退役空軍元帥で、マッカーサーやアイゼンハウワーと同格の四つ星)
(3) 前列の白いガウンは卒業生の第6世代のAlexandro Verbeckさん、手を添えているのが父Jon Verbeckさん。右の巨漢はJohn Ellis氏、その左隣が中津川博士
(4) 長男ウィリアムの胸像の前で。後列左から、Jon Verbeck、Howell Estes Ⅲ、Guido F.Verbeck Ⅳ、Guido F.Verbeck Ⅲ。中列左から、Kathy Verbeck、Alexandro Vebeck、Jane Verbeck、Michell Verbeck、Mary Verbeck Pomcroy。
前列左から、少女Annah V. D. Verbeck、Isabella P.Verbeck
(5) 家族大集合で全員が着けたリボン。三つの学校合併の団結を表現。毛利元就の「三本の矢」を連想させる
(6) ニューヨークの州道92から入る道に「Verbeck RD」の道標(緑色)がある
(7) 学校内にあるフルベッキ家のアメリカの墓地。大きいのは長男ウィリアムの墓標。中央の男性は追悼礼拝を司る牧師の3世。



◎ Guidoは「グイド」か「ギドー」か

 「明治日本の近代化の恩人ギドー・フルベッキの子孫」について書かせていただいたが、それには、桃山学院大学時代の村瀬寿代氏の労作(注)に負うところが多かった。
 最初に遭遇したのは、フルベッキの名前Guidoをどう発音するのかという問題であった。いわゆる西洋人の名前をカタカナにするほど難しい作業はない。それを一つだけ代表させるとすると、「Hepburn」がある。「ヘボン式ローマ字(Hepburn romanization)」という熟語で、ほとんどの日本人が知っているのは、James Curtis Hepburnで、映画「ローマの休日」で男どもをしびれさせた女優 Audrey Hepburnは、オードリー・ヘップバーンである。
 筆者(1931年生まれ)が幼年時代、小麦粉はメリケン粉であった。長じて米国に留学した時、americanと言う単語は、確かにメリケンと聞こえたので、「Hepburn」を「ヘボン」と聞き取った明治人の耳の確かさに改めて感動した記憶がある。
 この問題を自力で解明することはとても無理と考えた筆者は、いつもの“ずる”を決め込んで、畏友のニューヨーク州立大学名誉教授・中津川勉博士に助け船を求めた。その回答は、「名前というのは難しいもので、Webで見るとグイドが多数派、ギドーは一人の意見で、確たる事実が確認できなかった。そこで近代日本の恩人のフルベッキの6代目の子孫でノース・テキサス大学の教授Guido Fridolin Verbeck Ⅳに、一族ではGuidoはどう発音するのか問い合わせた結果、ギドーであるとの返事を得た」ということであった。正しく翻訳された村瀬寿代氏も一族の方に照会されたに違いないと、尊敬した次第である。
 と、ここまで原稿を書いてから中津川博士の家族と今年9月に短い旅をしたのだが、京都での一夜、中津川夫人の友人のオランダ人夫妻と南座の近くで夕食を共にした時のことである。フルベッキの名前のスペルを見せてどう発音するかを尋ねたところ、それは「ギドー」ですとの即答を得た。現代のオランダでは、グイドではなくギドーであることが確認できた。更にVerbeckは、「フ」で始まる読み方で、「ヴ」ではなく、ここでも幕末から明治の日本人の耳の確かさを再認識した。
 以上のような経緯でフルベッキ一族の伝記を一つのエッセイにまとめることができたが、これはIT時代でなければ大変難しかったに違いない。というのは上記の大学教授Verbeck Ⅳ のことを簡単に知ることができたのはGoogle検索の結果であり、早速在米の中津川博士の仲介で依頼し、寄稿していただいた上に貴重な写真をたくさん頂くことができた。


ーーーーーーーーーー 引用文献 ーーーーーーーーーー
(注)村瀬寿代著「フルベッキの背景ーオランダ、アメリカの調査を中心にー」、桃山学院大学キリスト教論集39:55-78(2003)

外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本 (1) は、> こちら


ーーーーーーーーーー 注 ーーーーーーーーーー
(注4)アメリカ・オランダ改革派教会(Dutch ReformedChurch in America)。フルベッキが来日した1859年から2年後に南北戦争が勃発し、教会も分裂状態で、フルベッキと同時に日本で宣教活動していたD.B.シモンズ、S.R.ブラウンらにとって状況は厳しいものであった。
(注5)『和譯英辭書』(薩摩辞書)。薩摩藩の高橋新吉(1843〜1918)が留学費用を稼ぐために前田健吉・正名兄弟とともに、江戸開成所から出版されていた『英和対訳袖珍辞書』を底本として編纂し、フルベッキの助力によって1868(明治元)年に完成、翌1869年上海で印刷出版された=葵文庫所蔵
(注6)フルベッキは1885(明治18)年7月、明治天皇から「勲三等旭日中綬章」を授与された。右は、授賞を元老院に報告した公文書=国立公文書館所蔵
(注7)錫板:1798年にオーストリア帝国のアロイス・ゼネフェルダーによって開発されたリトグラフ(石版画)に用いられていた石灰岩の平滑な板に代わ って、三男グスタヴが錫の平滑版を用いる改良法を着想した。現在はアルミ板が用いられている。Rice paper:中国、台湾原産の「紙八手」という常緑低木の茎の髄から作った通草紙(つうそうし)と称する紙の一種で、絵画や造花に利用された。

ーーーーーーーーーー 参考図書・文献 ーーーーーーーーーー
(19)http://commons.wikimedia.org/wiki/File:William_Elliot_Griffis_and_class.jpg
(20)http://en.wikipedia.org/wiki/Gustave_Verbeek
(21)http://britton.disted.camosun.bc.ca/verbeek/jbverbeek.htm
(22)http://thedabbler.co.uk/2014/05/gustave-verbeek-upside-down-cartoonist/
(23)John Ellis, Jo Ann Ellis(米国シラキュース市在住)提供資料
(24)西島照男著『アッツ島玉砕19日間の戦闘記録』北海道新聞社(1991)
 この著書のP.267の文献リストの中に次の記載あり。
 これがP.111の「第7師団記録『アッツの戦い』」W.J.フェアベック中佐』に相当すると考えられる。
 「FIGHTING ON ATTU by W. J. VERBECK, Lt. Col. G. S. C., Assistant, AC of S. G-2
(25)司馬遼太郎著『坂の上の雲、雨の坂』文芸春秋(1978)
(26)大岡昌平著『レイテ戦記』中央公論社(1971)
(27)司馬遼太郎著『坂の上の雲、ネボガトフ』文芸春秋(1978)
(28)http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/reite_kessen/reite_kessen.htm
(29)http://24thida.com/stories_by_members/verbeck_obituary.html
(30)http://chemistry.unt.edu/~verbeck/
(31)フルベッキの家系図:ニューヨーク州立大学教授 Tsutomu Nakatsugawaとその知人John Ellisより提供。

(作成:平成26年9月9日/文責:石田三雄)