高峰譲吉博士研究会

寄 稿(11) 高峰譲吉につながる人々 (1)

1.「NHK朝ドラ[花子とアン]の主人公に親切だった先輩・奥田千代さん」

 視聴率の高いNHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」では、女学校で安東はなさんを取り巻く個性的な先生方、先輩、クラスメートが登場する。
 中園ミホさんが脚本執筆の底本としている1冊に,村岡花子さん(旧姓安中はな)の孫娘村岡恵理さんの著書『アンのゆりかご・村岡花子の生涯』((株)マガジンハウス、2014年第9刷)がある。この著書の5か所に千代さんという女性が登場している。最初の44ページに、凛々しく垢抜けしたまぶしいような奥田千代という親切な先輩として、次の53ページには、自分のお下がりのひわ色の単(ひとえ) の縮緬(ちりめん) を着た花子を満足そうに眺めながら語りかける姉のように慕っている千代様として現れる。143ページではその人は製薬の三共(株)の三人の共同創立者の一人塩原又策氏と結婚して塩原千代となって登場する。物語はさらに進んで、206ページでは花子と一緒に同窓会の役員に選ばれることが記述され、最後の221ページでは同じように花子と共に母校を訪れ、太平洋戦争開戦直前にカナダに引き上げるメソジスト派の宣教師たちに別れを告げている。

 この奥田千代さんは、奥田象三氏と妻ひなさんの長女で、ドラマでの修和女学校のモデルの東洋英和女学校での安中はなの先輩であった。母親のひなさんは、明治維新で榎本武揚や土方歳三らと五稜郭で奮戦した大鳥圭介の長女である。大鳥圭介が1860年に、みちさんと結婚した翌年(五稜郭での敗戦の9年前)に生まれている。
奥田象三と東洋英和女学校
左/奥田象三:逓信省技師、三共(株)監査役(T13-S3) (1)
右/東洋英和女学校、カナダ、メソジスト教会宣教師ミス・カートメルによって1884(明治17)年創立。(2)

 奥田象三氏は、人物名鑑 (3) によると京都府の人・奥田橘平氏の長男として1857(安政4)年に生まれ、18歳で東京に出て、大学卒業後英国人について建築学を学び、官、民で勤務した後、1901年から逓信省技師として活躍後、1910年から三共(株)に勤務 (3) 。そこから高峰譲吉とのつながりが始まった。彼は高峰譲吉没後に、青山霊園にある高峰譲吉の墓を設計している。

東洋英和女学校同窓会
1908(明治41)年ころ開催の東洋英和女学校の同窓会(在校生も参加している)(4)
東洋英和女学校同窓会
上の写真の左下部の部分拡大写真:前列右から二人目(少女の後)がおそらく塩原千代さん
上の写真の最後列の中心から左の部分の拡大写真。この写真の左から3人目が在校生安中はなさん

 上の写真の同窓会開催と同じ年に、ドイツの誇る科学者であり日本の伝染病対策の基礎を築いた北里柴三郎の恩人であるローベルト・コッホが来日した。その機会に北里邸に招待された時に撮られた写真に塩原夫妻が写っている。塩原又策は、その4年前のセントルイス万博の機会に米国に高峰譲吉を訪ね、パーク・デイヴィス社を訪問して、ミシガン湖上のヨットの上で、北里、高峰との3人でしばしの楽しみを持つ写真が残されている (5)

北里邸
▲ コッホ博士来日時「北里邸でのコッホ夫妻と塩原」 北里柴三郎記念室蔵。

学校法人北里研究所が2012年発行した図録『北里柴三郎―伝染病の征服は私の使命』に、北里邸での記念写真と題して、上の写真と以下のような記述がある。

「明治41年(1908)6月25日、コッホ夫妻が皇居に参内し、明治天皇に謁見した日の午後に麻布の北里邸に招かれた時の記念写真。前列左より善次郎(次男)、北里夫人、寿恵子(三女)、コッホ夫人、美代子(次女)、康子(長女)、塩原夫人、俊太郎(長男)。後列左から、塩原又策(三共商店創始者)、長興稱吉(長与専斎の長男)、宮島幹之助、コッホ、北里柴三郎。」

 塩原夫妻の末子、(原)邦子さんによれば、千代さんは「シャキッとした女性」で、うちの中のことはすべて取り仕切っていたそうであるが、そればかりか、明治開国のさなか、東洋英和女学校でしっかり身に着けた英語をフルに活用して著名な世界的科学者とも交際し、当時トップの実業家塩原又策氏を助けていたのである。
転合庵 塩原千代さんは、夫又策氏の没後、由緒ある茶室を東京上野にある国立博物館にスパッと寄贈している。この茶室は有名な茶人小堀遠州が八条宮から茶入「於大名(おだいみょう)」を賜った際に、その披露のために京都伏見の六地蔵に建てた「転合庵」で、遠州は晩年ここでたびたびお茶会を開いた。その後、京都の寂光寺に伝わっていたこの転合庵を明治11年、福島県知事の渡辺清男爵が譲り受け東京麻布区霞町、今の西麻布に移築され、その後日本郵船の重役の三原繁吉の所蔵となっていた。三原は茶入「於大名」も入手し、転合庵とゆかりの茶入「於大名」が再び巡り合うこととなったが、その後塩原又策の所有となり、1963年に妻の塩原千代から茶入とともに東博に寄贈されたのである。
転合庵写真:東京上野の国立博物館にある転合庵。申し込めば有料で利用可。国立博物館ホームページより転載。

 さて話を村岡花子さんに戻すと、彼女は卒業後も塩原千代さんとの交流を続け、二人して東洋英和の同窓会のリーダーとして大活躍している様子を下の写真でご覧いただきたい。

同窓会のリーダー
左:1933(昭和8)年の東洋英和同窓会役員会(4)。
左の写真の右部分の拡大写真(筆者作成)。 後列右端が村岡花子、前列右から2人目塩原千代、3人目同窓会会長・大江スミ(家政学院創設者)。

 そして最後に悲しいお話しを一つ。村岡花子さんの義理の弟、即ち夫村岡儆三の弟(村岡平吉の五男)斎(ひとし)は、ヘボン式(日本字のローマ字表記)で有名なJ. C. Hepburnが1889年に初代総理として出発した名門明治学院を卒業後、3年間ロンドンで印刷技術を学び、帰国して巴さんという女性と結婚し、福音印刷の横浜本社(兄儆三が東京本社)を任されていた。この妻の巴さんは、塩原又策、福井源次郎と組んで3人で三共商店(製薬の三共(株)の前身)を創業した西村庄太郎の次女であった。村岡斎はこれからという時に、1923年の関東大震災で、妻の巴と1歳の創を残して70名の社員と共に亡くなるという、まことに残念な終焉を迎えなければならなかったことをお伝えして筆を擱きたい。

 最後になって申し訳ありませんが、北里柴三郎博士邸での写真は、北里柴三郎記念室(ご担当大久保美穂子 様)の、東洋英和女学校関係の写真は、すべて東洋英和女学院史料室(ご担当酒井 ふみよ 様)の、御厚意によるもので、深く感謝申し上げます。(理事:石田三雄)


ーーーーーーーーーー 引用文献 ーーーーーーーーーー
(1) 『三共百年史』三共株式会社、2000年6月発行
(2) www.toyoeiwa.ac.jp
(3) 大日本人物名鑑:近代デジタルライブラリー・国立国会図書館
(4) 東洋英和女学院史料室ご提供
(5) 「高峰博士ゆかりの地・人」 1)ゆかりの人―塩原又策(2)の(5株式会社設立時の高峰の支援の項)

(作成:平成26年9月26日/文責:石田三雄)