金子堅太郎

 1853(嘉永6)年、福岡藩士勘定所附・金子清蔵直道の長男として、筑前国早良郡鳥飼村(現在の福岡市中央区鳥飼)に生まれる。
 藩校・修猷館に学び、勘定所給仕となる。明治維新後、修猷館での成績が優秀であったことから永代士分に列せられ、家老から東京遊学を命ぜられる。
 さらに、岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、團琢磨とともにアメリカに留学。ハーバード大学法学部(ロー・スクール)に入学、小村壽太郎と同宿し勉学に励む。在学中に大学のOBである、セオドア・ルーズベルトと面識を得た。

 帰国後は民権運動に活躍し、1880(明治13)年、元老院に出仕。元老院権閣の総理秘書官を経て大書記官に昇格。内閣総理大臣秘書官として、伊藤博文のもとで井上毅、伊東巳代治らとともに大日本帝国憲法・皇室典範、諸法典を起草。のちに憲法制定の功績により男爵となる。
 日露戦争が勃発すると、伊藤博文の説得を受け、日本の戦争遂行を有利にすべくルーズベルトと外交交渉を行った。このときアメリカで金子を助けたのが、高峰譲吉博士である。
 後に金子は、「高峰博士と夫人(キャロライン)とがいなかったら、私は、あれだけの仕事に成功することはできなかったでしょう」と語っている。

 日露戦争後は枢密顧問官等を歴任し、二松学舎専門学校(二松學舍大学の前身)舎長に就任。その後生涯にわたって日米友好のために尽力し、米友協会会長、日米協会会長を歴任した。 (文責:事務局)
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