清水鐵吉清水鐵吉

 残念ながら、清水鉄吉に関する資料はほとんど残っていません。それは、清水がアメリカで、結核のために早世してしまったからです。

 現在の岐阜県大垣市の商家に生まれた清水は、慶応義塾を経て1883(明治16)年、工部大学校化学科を卒業。つまり清水は、高峰博士の工部大学校時代の後輩(高峰博士は一期生、清水は五期生)だったのです。しかも、高峰博士と同じく、農商務省へ入省しています。農商務省で、清水は高峰博士の研究助手的な存在であったようです。

 清水は1892(明治25)年頃に、農商務省を辞め、アメリカの高峰博士の元へ行っています。清水が独断で渡米するとも思えないので、恐らく高峰博士が呼び寄せたのでしょう。高峰博士がウイスキー醸造のための米麹発酵方式による試験が盛んに行われていた頃のことです。
 清水は助手として藤木とともに高峰博士を助け、タカジアスターゼの発見・特許申請に大いに貢献しました。しかしこの頃から清水は肺結核を発症し、パーク・デービス社との契約の翌1896(明治29)年、シカゴでその生涯を閉じるのです。34歳という若さでした。
 唯一の救いは、パーク・デービス社が迅速に動いて1895年にはタカジアスターゼの販売に漕ぎ着けたことです。自分たちが苦労して作り上げた「タカジアスターゼ」が、病院や薬局に送り出され、世界の薬業界を驚かせたことを、清水は喜びを持って受け止めたことでしょう。

 清水鐵吉の墓は、シカゴのオークウッズ墓地に今も残っているそうですが、この年、日本へ帰国する藤木幸助が、清水の遺骨を抱いて帰っています。後に高峰博士は、清水の母親を生涯面倒見続けたということです。

(文責:事務局)
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