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 (高峰譲吉が)満7歳で加賀藩の藩校、明倫堂に入り、明治維新前の1865年満10歳でなんと加賀藩から選抜された内地留学生となり、英語の勉強のために長崎に行き、その後学校も無く、教育制度も無く、当然教科書も無い時代に学問のために京、大阪、あるいは七尾まで赴き学問に精を出し、東京に官費の工部寮(後の工部大学校、東京大学工学部の前身)ができるというので上京したのは明治5年1872年である。

 翌1873年に開校されたが、学生は全国から32名の精鋭が集まり、また教師は8名ですべて英国から招請された。教頭のダイアー先生はじめ、ダイバース先生、あるいは日本酒を研究しその著書まであるアトキンソンなどの英国からの先生方やドイツからのコンシェルトなどの指導を受けたようである。

 6年制の学生時代には実技的なことも学んだようで、いろいろな「物作り」に挑戦し、化粧品始めガラス工場の煙突を作ったり、西南の役の時には西郷軍に閉じ込められて熊本城に篭城している谷干城率いる政府軍を助けるために飛行船を作ったり、粉末醤油まで作っていた。粉末醤油の技術はその後の日清戦争や日露戦争では利用されたと高峰博士は息子ジョー宛の手紙に書いている。

 工部大学校となって初代校長に大鳥圭介が着任してからは欧米の最新の科学技術情報を紹介する雑誌の発行までも行った。この学生時代に日本酒からのアイデアとして麹を利用してアルコールを造る、あるいは酵素を作るというヒントをすでに得ていたのではないだろうか。

 (当研究会・山本理事長「日本酵素産業史―序文」より)(文責:事務局)
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