日米合弁事業

 (民主党のウイルソン大統領の時代に入ると)さらに益々悪化する日米関係改善のために博士が最後の手段と考えたのが日米合弁事業であった。
 これまで日米親善のためにいろいろなことをやってきた。日米協会はじめ、ニッポン・クラブ、ジャパン・ソサイエティーなども作り、精力的に全米を駆け巡って日本と日本人に対する理解をアメリカ人に求めて話しかけて来た。
 日本紹介の雑誌なども発行した。平和のシンボルのような日本の美しい桜をワシントン市やニューヨーク市へ6000本も寄贈した。しかしながら博士の努力は空しかった。話してもダメ、書いてもダメだった。そこで合弁事業である。
 日本とアメリカが一緒になって協力して事業を行う。そうすれば人の交流は絶対に必要である。お互いに理解しなければならない。そこで博士が考えたのが当時日本にはなかったアルミ産業を興す事であった。
 生まれ故郷の高岡には江戸時代初期からの銅器や鉄器の加工技術がある。アルミ産業には絶対に必要な技術である。また大量の電力がアルミ産業には必要であるが、故郷の山、黒部には豊富な水資源がある。
 そこで世界最大のアルミ会社アメリカのアルコアのデービス社長に相談して了解を得て、同社長を伴って帰国したのは1916年である。デービス社長も好意的に取り計らい、合弁事業を了解した。
 翌年三共の社内に東洋アルミナムという会社も作った。黒部にダムを造るためには工事用の資材運搬手段を作らねばならぬ。そこでトロッコ電車の黒部鉄道を作った。
 だが、それまで好況であったアルミ産業も第一次世界大戦の特需が終われば不況の時代に入って行った。アルコアは合弁会社どころではなくなった。そこで、東洋アルミ単独で事業化に取り組む中、博士は病に倒れ、博士亡きあと、この計画も頓挫してしまうが、黒部にダムがその後沢山出来たのは皆さまご存知のとおりである。

(当研究会・山本理事長「日本酵素産業史―序文」より)(文責:事務局)
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