タカミネ・ラボラトリーと酵素事業

 高峰博士が本格的に酵素の製造・販売に取り組んだのは1914年にタカミネ・ラボラトリーをニューヨークに設立してからである。そして1917年にニュージャージー州クリフトンに酵素工場を建設した。当初の製造品はもちろんタカジアスターゼである。デトロイトのパークデービス社ではこの頃よりドラム式培養によるタカジアスターゼの試験が繰り返し行われるが、期待するほどの成果は得られなかった。この培養法の研究は高峰博士亡き後もその遺志はアンダーコフラー博士などに引き継がれ、さらに堆積培養(Heap Culture)へと進展した。
 クリフトン工場建設後は麹菌ばかりでなくヨーロッパで開発されてまもない細菌澱粉分解酵素も手がけられ、特にポリザイムと命名した酵素の繊維工業への糊抜き剤としてばかりでなく、製パン、洗剤、などいろいろな用途への利用を試みた。ただし、製パンへの利用に関してはタカジアスターゼ同様にこのポリザイムもその混在する高い蛋白分解酵素のために、それを物理的な方法で除去することをいろいろと検討したり、その蛋白分解酵素の生産性を下げるべく麹菌を育種するとか、あるいはそのような菌株を他所から入手したりと苦労していた。
 また、逆に蛋白分解酵素にも大変興味を持っていたようで、たとえば、1913年にパリのパスツール研究所に長男のジョーを学位取得のために送り込み、醤油麹から蛋白分解酵素を作ることを研究テーマとするよう望んだ。また晩年に提出した特許にはアスペルギルス、ペニシリウム、あるいはムコール属のかびを利用してアミラーゼ、プロテアーゼ、リパーゼ、およびレンネットを作るという特許があるが、良い凝乳酵素が開発できればニューヨーク州のいくつかのチーズ工場で試作を行おうとしていた。
 このような用途開発、および麹培養の改良、さらにはその他のもろもろの製品開発に実験計画を含めて細かな指示を、病床にあっても部下たちにしていたのである。当時の部下に大河内、真鍋、などの日本人スタッフも多かったが当然、米国人はじめいろいろな人材がいたのである。
 たとえば後にストレプトマイシンでノーベル賞を受賞したセルマン・ワックスマンも高峰博士にあこがれて入社した一人であった。ワックスマンは特に蛋白分解酵素に興味を持ちこれをライフワークとしたいと願っていたほどの熱意を持ち、絹や木綿などの繊維産業への利用を考え特許を提出しようとしたが、上記のポリザイムという繊維用酵素の特許が先行していたので特許申請は認められなかった。

 (当研究会・山本理事長「日本酵素産業史―序文」より)(文責:事務局)
× close