農商務省入省から、渡米まで

 入省2年目の1884年、米国ルイジアナ州のニューオーリンズにて開催された万国博覧会に日本からの3人の担当官の一人として派遣された。万博の会期は1884年12月から翌1885年の5月であったが、高峰博士はその準備や後始末、さらには肥料製造の勉強や特許商標制度の調査などで1年間当地に滞在した。その間フレンチコーターの一画にある下宿先のヒッチ家の長女キャロラインと恋に落ち、婚約し、2年後に再度当地を訪問して正式に結婚したが、おそらく正式に手続きを取ったものとしては最初の国際結婚であろう。

 ニューオーリンズに滞在中、リン鉱石を万博中の米国館で見て興味を抱き、ポケットマネーで10トンばかり購入して帰国したことが高峰博士の手がけた最初の企業、東京人造肥料製造の立ち上げに繋がった。
 また高橋是清と特許商標制度の確立に奔走して特許局長官代理あるいは次長なども兼任していた時期もあったが日本酒や麹の研究も清水鉄吉、高山甚太郎や肥田密造などの協力を得て続けていた。その結果として高峰博士は外国への最初の特許を出願したのが「麹を利用したアルコールの製造法」で米国特許は1889年に成立したが英国では1887年、ベルギー、フランスでは1888年に成立している。

 この特許の成立を一番喜んでいたのは高峰博士夫人キャロラインの両親であろう。まだまだ発展途上の日本で苦労しているわが娘をできるだけ早く米国へ戻そうとしていた両親、特に母親のメアリーは熱心でシカゴのウイスキー・トラストにこれを売り込んだ。これがわが国の技術輸出第一号である。

 肥田密造の協力を得て丹波杜氏の藤木幸助に手伝ってもらって乾燥麹を携え日本で生まれたジョーとエーベンの2人の幼子を連れ、藤木幸助を伴って米国へ旅たったのは翌年1890年の終わりであった。

(当研究会・山本理事長「日本酵素産業史―序文」より)(文責:事務局)
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