パークデービス社関連

 一命は取り止めたものの、しかしながら、高峰博士はますます苦難の時代に入って行く。キャロラインは内職をして生計を助け、高峰博士は日本の親戚から多大な借金をする。
 しかし高峰博士には希望があった。タカジアスターゼである。麹作りの名人藤木幸助の他に工部大学および農商務省の後輩で秀才、清水鉄吉を呼び寄せて開発を急ぎ1893年頃には目処がついた。一連の特許8個を申請し、それらが成立するのは1894年の9月だが、その1年前からパークデービス社との交渉が始まる。
 高峰博士は今までの分を一気に取り戻そうとかなり高額のライセンス料を要求する。商標使用料も高い。従って一度交渉は決裂する。しかしながら従来の麦芽由来のジアスターゼと比較して酵素活性も高く、捨て置けないと思ったパークデービス社は極めて好意的に高峰博士に良い条件を出し、ライセンス料は約500万ドルと当時としては異常なまでに高いものとなったが、これは当時の日本の国家予算の1/20に相当する超破格のライセンス料であったとみられる。
 また、商標使用料にしてもパークデービス社がこの事業から生じる利益を高峰博士と折半するというように売上高の約1/3とこれまた極めて高い。このように双方とも高くなった理由の一つは、もちろんパークデービス社の好意も極めて大きいが、高峰博士の作戦勝ちと言えないでもない。
 高峰博士は当初から消化剤以外の用途への販売を考えており、製パン改良剤の目的で販売するためにパークデービス社以外の会社と交渉しようとした。それを知ったパークデービス社は製パン改良剤も、水飴、アルコール製造用、食酢製造、ビール醸造など一切の用途への酵素販売を自社で行うことを強く求めたのである。
 また、米国以外でも、例えばヨーロッパでも、いくつかの国でそれぞれ別個の会社と契約して事業化することも高峰博士は考えていた。パークデービスはこれに対しても反対で、一連の特許の世界での独占実施権を要求したのである。
 このような状況で高峰博士はタカミネ・ファーメントから酵素力の強いタカモヤシ(あるいはタカコウジ)をデトロイトのパークデービス社に供給して、同社で酵素を抽出してアルコール沈殿を作り、発売を始めたのは1896年であろう。正式な注文書は1897年1月9日のものが一番古いが、その前年にはすでに発売が始まったと各種の資料から窺われるのである。
 米国以外での販売では主としてデトロイトから輸出されたが、同社の英国支社では現地生産を始めた。日本ではタカジアスターゼの輸入販売のために三共商店が塩原又策らにより設立された。
(当研究会・山本理事長「日本酵素産業史―序文」より)(文責:事務局)
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