高峰譲吉博士研究会

高峰博士の業績

1.人造肥料


 日本の人造肥料の草分けは、高峰譲吉(当時はまだ博士ではない)です。
 当時(明治時代中頃)の肥料といえば、人肥、牛馬の糞尿、干し鰯などで、いずれも農作物の生産性を著しく向上させるほどのものではありませんでした。
 工部大学校を主席で卒業し、3年間のイギリス留学中に人造肥料の工場で実習経験を持つ高峰譲吉は、帰国後の1883(明治16)年、農商務省に入省し、翌年、米国ニューオーリンズ万国博に事務官として派遣されます。
 そこで譲吉が得たものが、生涯の伴侶となった > キャロラインと、もう一つは人造肥料としての燐酸肥料(燐鉱石)でした。
 博覧会の会場で燐鉱石を見た譲吉は、博覧会場から1,000キロ以上離れたチャールストンまで出向き、自費で10トンもの燐鉱石や燐酸肥料を買い付け、日本へ送らせました。
 1年間の滞在中にキャロラインと恋に落ち、譲吉は婚約して日本に帰りました。

 翌1886(明治19)年には農商務省の他に、当時高橋是清が長官を務めていた特許局に次長兼務を命ぜられましたが、その頃既に譲吉の頭の中には、人造肥料会社の設立構想があったようです。

 譲吉は三井物産創設者の益田孝、第一国立銀行頭取の渋沢栄一に会い、人造肥料の製造と普及を熱く説きました。元々明治維新当初から、日本の将来の発展には食料問題は避けて通れないと思っていた両氏は譲吉の提案に賛同し、翌1887(明治20)年、「東京人造肥料会社」設立に至るのです。

(上の写真は、東京都江東区大島一丁目の釜屋堀公園内にある化学肥料創業記念碑)
> 関連記事(東京都内散策 > 釜屋堀公園)

 原料である燐鉱石とサンプルとしての燐酸肥料は、既に譲吉が自費で購入していたものがありました。後は工場の建設と製造のための機械の購入ですが、新会社の設立準備会の直後、機械購入のための譲吉の米国出張が決定されました。
 譲吉の出張は農商務省の官費ではなく、自費でした。同時に、深川釜屋堀に工場用地が整えられました。譲吉はニューオリンズで目出たくキャロラインと結婚し、その足(二人)でニューヨークへ新婚旅行を兼ねて機械の購入に向かいました。譲吉の帰国後、その年の暮れに、「東京人造肥料会社」が正式に設立されています。
 翌年譲吉は農商務省を退職し、新会社の「技術長兼製造部長」といった地位に就きます。譲吉は寝食を惜しんで働いたようですが、一方新妻のキャロラインは、文化も習慣も違う異国の地で、夫・譲吉を助けながら長男・襄吉を、その翌年には次男・エーベン・孝を出産しています。
 さらに譲吉は工場の隣地に私設製薬所を設け、予てより構想を練っていたであろう、アルコールの発酵、即ちウイスキーの製造工程に日本酒の醸造(アルコール発酵)技術を応用する研究をしていたと思われます。

 「東京人造肥料会社」は、関東大震災で消失するまでこの地で生産を続けた訳ですが、実は譲吉は「(麹による)酒精製造法」特許が前年(1889年)米国で成立し、シカゴのウイスキー・トラストより招かれて、1890(明治23)年、妻子と共に渡米(移住)してしまうのです。
 このことに関して、東京人造肥料会社の経営者であった渋沢栄一は苦言を呈し、思い止まらせようと試みたようですが、益田孝に説得され、最後は了承したと伝えられています。

 この東京人造肥料会社は、後に現在の「日産化学工業株式会社」へと繋がって行ったのです。


(参照:当研究会・山本理事長執筆文献 他)

今後の掲載予定

・日米親善、民間外交、など…


(記事作成:平成25年8月5日/文責:事務局)