高峰譲吉博士研究会

高峰博士の業績

2.タカヂアスターゼ


タカヂアスターゼとは

 現在、『タカヂアスターゼ *』という商品名の市販薬はありませんが、タカジアスターゼは、高峰博士の考案した原理に基づいて現在でも製造され、消化剤として知られている市販薬の原料として利用されています。

(* 『タカヂアスターゼ』は商標。以下、タカジアスターゼと表記します。)

 発売以来100年を経てもなお第一線で使用されている医薬品は、この「タカジアスターゼ」と、同じく高峰博士が初めて抽出・結晶化に成功した「アドレナリン」、そして鎮痛剤として知られる「アスピリン(独・バイエル社)」しかありません。
 この三つのうち二つが高峰博士の発明(発見)であるということを見ても、いかに博士の功績が大きなものであるかが分ります。

タカジアスターゼの発見
 高峰博士の「タカジアスターゼ」発見の芽は、そもそもは1887(明治20)年の「東京人造肥料会社」設立以前に遡ります。

 > 新資料による「タカジアスターゼの原点」 初期研究は既にあった!(2013.11.29)

 母の実家が造り酒屋(醸造元)であったことや、1880(明治13)年から3年間イギリスに留学して(スコッチ)ウイスキーを知っていた事なども影響していることと思われますが、この頃博士は一方で、アルコール発酵の研究にも取り組んでいました。
 つまり、ウイスキーの製造工程に、日本酒の醸造技術を応用する事です。
 蒸留酒であるウイスキーと、醸造酒である日本酒とは、原料もアルコール濃度も味わいも、全てが違っているものの、製造工程のデンプン液化・糖化工程、およびアルコール発酵行程は同じなのです。
 ウイスキーの原料となるモルト(麦芽)は栽培に手間がかかり、その製造行程も大掛かりですが、日本酒は麹の力で米を糖化し、アルコール発酵させるものす。麹は通常麹室と呼ばれる蔵の中でつくられます。
 高峰博士が着目したのは、小麦の皮(麸=廃棄物=安価)を材料として使用し、米麹のデンプン分解力を利用するというものでした。
 同時に高峰博士は種麹そのものの改良にも取り組み、腐敗せず長期間保存できる種麹製造に成功しています
 イギリスで1887 (明治20)年、「(麹による)酒精製造法特許」が成立し、翌年フランス、ベルギーでも取得。1889 (明治22)年にはアメリカでも特許が成立しました。この米国特許が元となって、ウイスキートラスト社から渡米を要請される事になるのです。
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 ようやく設立に漕ぎ着けた「東京人造肥料会社」を抜けてまで、高峰博士は夢をアメリカに託していたようです。勿論、妻キャロラインの故国という事もありますが、やはり博士は夢に賭けて挑戦したのでしょう。1890 (明治23)年、一家四人と麹つくりの名人藤木幸助と共にアメリカに渡りました。
 ウイスキートラスト社が用意したとされる「ヒニックス醸造所」で、高峰博士は日本から連れて来た藤木と共に、前述のウイスキー製造の実験を行ないました。結果は良好で、ウイスキートラスト社のグリーナット社長からピオリアの町でさらなる工業化試験に携わるよう要請されます。
 イリノイ州の穀倉地帯の中心であった当時のピオリアは、全米のウイスキー原酒用アルコールの95%を供給していました。高峰博士は「タカミネ・ファーメント社」を興してまで、その地でウイスキートラスト社に雇用されるのではなく、独自の道を歩み始めたのです。
 タカミネ・ファーメント社は物を生産する会社ではなく、特許を保有してその特許料収入で運営する研究開発会社です。今風にいえば、研究開発型のベンチャー企業でしょう。
 前途洋々に見えた工業化試験でしたが、モルトを大量に使用する必要がなくなる製造法に対して、地元のモルト業者が反発し、ある夜、試験場に放火(決定的証拠は無いようですが…)され、大切な麹室から何から全て灰燼に帰してしまったのでした。1892 (明治25)年、高峰博士が出た工部大学校の後輩で、農商務省時代の助手であった清水鐵吉を呼び寄せた直後の事です。
 おまけに高峰博士は、今までの無理がたたってか、腹部に腫れ物(肝臓病であった)が出来て倒れてしまいました。妻・キャロラインの機転で一命を拾ったものの、試験場の焼失のショックと病のせいで、高峰博士は二ヶ月も入院してしまうのです。
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 その後、ウイスキートラスト社のグリーナット社長の強力な後押しもあり試験の再開を考えましたが、これに反対するウイスキートラスト社の役員達が会社を解散していまい、再開の道は閉ざされてしまいました。
 「タカジアスターゼ」発見は、このような切羽詰まった状況の元でなされているのです。博士の執念とも言えるのではないでしょうか。
 高峰博士はこの時既に、前述のウイスキー製造試験の行程の中からヒントを掴んでいたと思われます。つまり、ジアスターゼと呼ばれる酵素がデンプンを分解(消化)する事は分っていたので、麹カビ菌の中から力の強い菌(株)を見つけ出せれば…と考えたのです。そして苦労の末、しかし予想した通りの力の強い麹菌(強力なジアスターゼ生産菌)を発見したのです。

(このことは上の「新資料による『タカジアスターゼの原点』」によれば、この時点で初めて考えたのではなく、既にそのアイデアと初期研究の結果を持っていたということになります)

 更に博士は、学問的にジアスターゼを整理し、糖化酵素と、デンプン液化力の強い酵素に分類しました。液化酵素がまずデンプンを分解し、糖化酵素がさらに分解するというメカニズムを明らかにしたのです。
 この強力なデンプン分解酵素が即ち「タカジアスターゼ」であり、初めて医薬品への道が開かれたのです。1894 (明治27)年、高峰博士は「タカジアスターゼ」に関する一連の特許を申請し、取得しています。
 ちなみに「タカジアスターゼ」の「タカ」は、ギリシャ語で「強い」「最高の」という意味だといいますが、勿論、高峰の「タカ」を掛けたものでしょう。

 この後も博士は、シカゴで辛い日々を送っていましたが、キャロラインの助言もあってか、パーク・デービス社と接触します。そして高峰博士(とキャロライン)は、「タカジアスターゼ」の売り込みに成功したのです。数週間後、パーク・デービス社から製造・販売を約する旨の連絡があり、月300ドルでのコンサルタント契約も結んでいます。
 高峰博士はタカミネ・ファーメントから酵素力の強いタカモヤシ(あるいはタカコウジ)をデトロイトのパークデービス社に供給し、同社で酵素を抽出してアルコール沈殿を作り、発売を始めたのが、1895(明治28)年のことでした。
 残念なのは、この翌年(1896年)、藤木と共に博士を助けて来た清水鐵吉が肺結核のため、34歳の若さで亡くなった事です。時を同じくして日本へ帰らなければならなくなった藤木が、清水の遺骨を抱いて帰国しています。
 この「タカジアスターゼ」のライセンス料および商標使用料に関するパーク・デービス社との契約は、「タカジアスターゼ」の有用性を認めたパーク・デービス社の好意もありますが、当時としては異常なまでの超破格のものでした。
パークデイビス社
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 後に日本の三共商店と提携してタカジアスターゼを日本で販売(1899年)する事になりますが、これも高峰博士がライセンス契約の時、日本での販売に関しては除外しておいたからにほかなりません。博士はやはり、故国日本での販売は日本人の手に委ねたいと考えていたからなのです。
 そしてこの三共商店の創設者・塩原又策とは、その後深い絆で結ばれて行く事になるのです。

(参照:当研究会・山本理事長『日本酵素産業史』序文、飯沼和正・菅野富夫 著『高峰譲吉の生涯』など)

今後の掲載予定

 ・日米親善、民間外交、など…


(記事作成:平成25年8月5日/文責:事務局)