高峰譲吉博士研究会

高峰博士の業績

5.アルミ工業発展への貢献


背 景
 1904 (明治37)年の日露戦争終頃から高峰博士は日米親善に心を砕き、セントルイス万博で日本館であった「鳳凰殿」を引き取って、翌年ニューヨーク郊外に移築、「松楓殿」として日米親善の場とするなど、私財を投じて活動を続けて来ました。
 1911 (明治44)年には、ニューヨーク・ハドソン河畔に、国際親善の場とする邸宅を完成させ、また翌年にはワシントン市などへの日本の桜寄贈に多大な貢献をするなど、努力を続けて来ました。
 しかしながら、高峰博士が在米のまま三共株式会社初代社長に就任した1913 (大正2)年、カリフォルニア州で「対日土地法」が施行され、排日運動が高まりを見せ始めていました。
 1914 (大正3)年に第一次世界大戦が勃発すると、さらに日米の関係に暗雲が垂れ込めて来ます。そこで高峰博士は、日米の共同事業の立ち上げを考えました。

アルミ工業のための電源開発(東洋アルミナム株式会社 他)

 高峰博士が考えたのは、アルミ工業を起こすことでした。
 博士の生誕地・高岡には、古くから銅加工の技術があり、富山湾に面する良港を有するこの地(富山県)でアルミ工業を起こせばその技術が生きる。そして大量の電気が必要なアルミ工業を起こすには、無尽蔵とも言える水資源の利用が最適であると考えたのです。
 当初、高峰博士は神通川を考えたようですが、水利権の獲得が出来なかったため、1917年から黒部川の調査に乗り出しました。
 そして高峰博士は、親交のあった米国大手アルミ企業のアルコア社社長に持ちかけ、1919(大正8)年12月、三共本社内に東洋アルミナム株式会社を設立し、まず黒部川の電源開発に着手しました。

 1921(大正10)年、東洋アルミナムは黒部鉄道株式会社を設立し、鉄道建設に着手しました。宇奈月を電源開発の基地とし、同時に温泉地として発展させれば、一般客の取り込みも可能になり、鉄道事業の運営、電源開発と地域開発が同時に行なえると考えたのです。
 東洋アルミナムは1922(大正11)年に黒部温泉会社を発足させ、黒薙の温泉の権利や宇奈月の土地の買収等を行ないました。これが現在、富山県内で最も有名な宇奈月温泉となったのです。


 しかし、第一次世界大戦後の経済不況の中、1922(大正11)年7月に高峰博士が亡くなると、東洋アルミナムによる電源開発事業は縮小し、黒部温泉会社の土地買収も終結してしまいます。
 そしてついに同年、東洋アルミナムはアルミ製造事業を断念し、黒部水力株式会社と改称。高峰博士とともに代表を務めていた塩原又策は、会社の全株式を日本電力に譲渡し、東洋アルミナムの社長には日本電力の山岡順太郎が就任しました。
 こうして高峰博士の壮大な夢は博士の死とともに日本電力へと引き継がれ、やがて富山県のアルミ産業の発展に繋がって行ったのです。
 因に1925(大正14)年、日本電力が黒部水力を合併し、本格的に日本電力(現在は関西電力)に引き継がれました。

 1927年には黒部川で最初の柳河原発電所が運転を開始し、1940年には黒部第3発電所、さらに1961年には、映画「黒部の太陽」で知られる黒部第4発電所が発電を開始しました。
 アルミ精錬事業は、1934年、「日本沃度」という会社を経て「日本電工」が初めて生産に成功。一方アルミ加工産業では「三協アルミ」と「立山アルミ」が、1960年に竹平政太郎・栄次兄弟によって創業され、本社を高岡に置いています。
 高峰博士没後約40年を経て、博士のアメリカでの発想が見事に結実したと言えるでしょう。


(参照:山本綽氏、石田三雄氏、飯沼和正氏 他の著書などより)

今後の掲載予定

 ・日米親善、民間外交、など…


(記事作成:平成25年8月5日/文責:事務局)