高峰譲吉博士研究会

高峰博士の業績

高峰譲吉と食品産業


【バイオテクノロジーの父】
 高峰譲吉は文明開化の明治の串期にあって、今求められている研究開発に基づいたベンチャー・ビジネスをアメリカに乗り込んで成し遂げた男である。それも西洋からの技術導入に明け暮れていた時代にあって、日本の伝統的な醸造などの技術に目を向け、それに西洋から学んだ科学のメスを入れて発明・発見を成し遂げ、事業化にも成功した男である。日本酒の麹を用いて効率的にウイスキー用のアルコールを作るという特許が渡米のきっかけとなった。米国では技術的には成功するものの、本人が後に百難に遭遇したと言っているように、いろいろな妨害に遭遇し、せっかくの工場も放火と思われる火災で灰迪に帰し、これは断念せざるを得がかったが、すでに次の手を考えていた。
 それが同じく日本酒の麹からの酵素、消化剤タカジアスターゼである。この事業化にも成功を収め、続いて外科手術などに必須薬のアドレナリンの結晶化にも成功する。この二つの成功で高峰は富と名声を得、共に世界で最初の微生物酵素であり、初のホルモン製剤であることからバイオテクノロジーの父と言われるようになった。彼の墓地は二ューヨークにあるが、案内書に "Father of Modern Biotechnology" と書かれている通りである。


【タカジアスターゼ】
 消化剤としての成功は余りにも大きく、それ以外の各種産業への応用については全く省みられていないが、タカジアスターゼが消化剤として世に出る以前から高峰はアミラーゼ、特に液化型アミラーゼのその他の産業における利用の可能性を十分に認識していた。消化剤としての事業は米国の製薬会社であったパーク・デービス社〔現ファイザー社〕にいくつかの特許を譲渡して実用化されたが、その交渉の過程において高峰は多大な特許料を得るのに成功している。実は高峰は消化剤以外の用途、例えぱ、製パン改良剤として販売することも目論んでいたようで、パーク・デービス社以外の業者と交渉を始めようとしていた。それに気が付いた同社は「ぜひ、それもわが社にやらせて欲しい」となった。そればかりか、この酵素がアルコール、ビールやウイスキーなどの酒類の製造、食酢、水飴類、菓子製造などさまざまな用途に利用できることを知らされて同社は社長以下大変に驚いたのであろう。酵素というものが魔法の杖のように思われたに違いない。ほぼ500万ドルという大金で権利を、すなわち日本を除く世界の販売権を譲渡するのである。
 しかもアドレナリンが商標であるようにタカジアスターゼも商標であり、さらに「タカ」もいくつかの国で商標を取っている。この商標使用料についても、同社は高峰に敬意を表し、高額の商標使用料を払うのである。同社はこの事業により生れる利益はすべて同社と高峰側が折半するという提案をしたのである。タカジアスターゼ商標使用料だけでも毎年4万ドル以上が高峰の手に入った。実は高峰は日本の特許・商標制度を高橋是清と確立した男でもあった。自身は化学者でもあり、したがって今で言う知的財産権については極めて詳しかったのである。
 高峰が考えたこれらのタカジアスターゼの酒類・食品への利用は、消化剤としての利用と共に100年以上を経過した現在においても世界各地で健在である。そればかりかタカジアスターゼはカビ(アスペルギルス・オリゼー)のアルファ・アミラーゼとして製バン改良剤や水飴製造用酵素としての利用は今でも増え続けている。高峰は100以上の特許を世界各地で取得しているが、そのほとんどは酵素関連である。晩年には息子と共同で、アスペルギルスだけでなく、ペニシリウムやムコール(現リゾムコール)などのカビを培養して、アミラーゼばかりでなく、プロテアーゼ、リパーゼ、あるいは凝乳酵素のレンネットに至るまでの幅広い酵素を製造する特許を成立させている。特にプロテアーゼについては大いに関心があった。

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【プロテアーゼ】
 渡米する以前の農商務省の分析課長をしていた頃より、日本の伝統ある醸造製品は日本酒でも醤油でも将来国際的な商品になると考えていた。また、日本酒が明治時代においては国税収入の1/3を占めるほど日本の重要な産業であったことから、「醸造試験所」の設立を提唱していた。タカジアスターゼは日本酒の麹からの産物であったが、醤油の麹についてもすぱらしいプロテアーゼの給原になるはずだと考え続けていた。長男(高峰譲吉二世)がアメリカの大学を卒業した後、1913年パリのパスツール研究所に送り込んで跡取りのために博士号を取得させようとするのだが、金持ちのお坊ちゃんはなかなか尻が落ち着かず、金ばかり無心して親を困らせる。そこで、醤油の麹のプロテアーゼの研究をテーマにしたらどうかといって、その研究の重要性を説く。プロテアーゼのいいものができればいろいろな可能性が出てくる。例えば、チーズ用のレンネットである。青カビチーズのロコフォルティーもいい酵素の給源かもしれない、ともいう。だがしかし、息子はそのうちに第1次世界大戦が勃発して結局は何もしないで帰ってしまう。この高峰が目を着けた醤油麹のプロテアーゼが吉田文彦博士により開発されたのはこの後、40年後だし、実用可能なレンネットが東京大学の有馬啓博士らにより開発されたのは50年後である。長男がパスツール研究所に居たのはわずか1年足らずであるが、その間に70通余りの文通があり、それによれば高峰は工部大学校時代に醤油の真空乾燥に成功しており、その技術をもって英国留学を果たし、帰国後、この技術が軍により取り上げられ日清・日露の戦争で役に立ったとある。
 晩年、高峰は病床にあってもプロテアーゼに思いを入れて、いいプロテアーゼが見つかったということを耳にすると、チーズメーカーを何社か知っているからそこでチーズの試験をやったらどうかとあくまでも意欲的であった。また、繊維用のアミラーゼ事業に乗り出すと、今度はそれを製パン改良剤にテストすることを命じ、プロテアーゼが問題で使えないと分かると遂にプロテアーゼを除去するテストを事細かに指示しているほどである。高峰を尊敬し、彼の下へ来た若き日のセルマン・ワックスマンはこれまた、プロテアーゼが好きで、“プロテアーゼの研究はライフワークである”と言っていたのも面白い。その他、高峰がチャレンジした事業は数多くあるし、食品添加物の日本酒用防腐剤、サリチル酸は友人のトーマス・エジソンとの関係から可能となった仕事であるし、これはベークライト事業にも繋がる。高峰はいろいろな場面で多くの人に出会い、彼らとの交流からもいろいろな研究開発、そして事業が生れている。


【NPO法人高峰譲吉博士研究会】
 高峰譲吉の功績は多大である。バイオテクノロジーの父と言われる所以となったタカジアスターゼとアドレナリンだけでも相当な功績であるが、なにせ、化学者であり、発明家、事業家、慈善家、そして日本のため、日本人のために、日米親善のために身を粉にして働き続け、志し半ばで世を去った。さぞかし残念であったろう。病床にあった1921年には日本から渋沢栄一率いる経済視察団が来るし、またワシントン平和会議が翌1922年にかけて開催され、加藤友太郎や加藤高明が来る。両加藤ともその後総理大臣になる人である。病床を抜け出してまで、日本のために働くのである。この無理がたたってついに帰らぬ人となった。正に殉死である。これほどまでに日本のために働いたにもかかわらず、高峰は今や歴史の舞台から消え失せようとしている。酵素関係の専門家や、バイオテクノロジー関係者、あるいは大学などの指導者でも、全く知らない人が増えてきている。昔は教科書にも良く紹介されたが、今は教科書には名前だけが載るのが精一杯である。ひがみではないが、高峰に世話になり、面倒を見てもらった野口英世は大変有名である。元総理の小泉純一郎氏は野口英世賞を設けようとするほどである。野口が尊敬し、あこがれた高峰は無名に等しいほどである。野口は高峰にならって奥さんはアメリカ人をもらい、墓はなんと高峰の墓のそぱである。しかし、野口の墓を見に来る人はいるが、高峰の墓を見に来る人は滅多にいない。著者は何度か墓参しているが、墓地のガードマンに、「日本人? 野口はあそこ!」と言われるのはありがたいようで、「なぜ高峰でないのか」と残念である。
 タカミネ・ラボラトリー著者は縁あって高峰の作ったタカミネ・ラボラトリーを引き継いだ米国のマイルス・ラボラトリーに長年世話になった。このタカミネ・ラボラトリー由来の酵素事業、乳製品事業、有機酸事業、澱粉加工など、要するにバイオ関連事業が私の担当であった。これらをまとめて名称は変遷したがバイオプロダクト事業部とか、パイオテクノロジー事業部といわれた時代もあった。この中でも一番付き合いが長く、趣味と思うほどのものが酵素であった。マイルスの名前はもう歴史から消えてしまったが、それぞれの事業はM&Aでパラバラになってはいるが、いくつかの会社に受け継がれて世界各地で継続されている。タカミネ・ラボラトリーという伝統ある酵素部門には世界中から酵素の好きな優秀な研究者が集まっていた。特にインド、中国、輪国などアジアから来る人が目立ったが、彼らは高峰のことについて、「日本人だけの自慢ではない、高峰はわれらアジア人も誇りに思う」という人が多かった。もちろん、アメリカ人でも高峰を誇りにしていた先輩が沢山いたのである。日本人でも昔は高峰を尊敬し、憧れを持つ人が多かった。そのような先輩がたが早世されて、周りを見渡すと、タカミネ・ラボラトリーの縁者は、少なくとも日本では自分一人となってしまった。今まで長年の間、酵素の仕事を中心にいわゆるバイオ関連の仕事を楽しませていただき、三度の飯も食べられたのもこの高峰譲吉のお陰であると思っている。何かご恩に報いるためにせねばならない、とは長年思い続けていたことだが、NPO法人高峰譲吉博士研究会の理事長を引き受けることになろうとは思ってもいなかった。身に余るどころか、全くもって身分不相応な仕事をお引き受けしたという思いである。
 しかし理事長と言っても、実際には高峰についての調査・研究である。タカミネ・ラボラトリーにあった高峰関係のもろもろの遺品は1980年台初期に完成した新しい工場へ移されたが、その後、その工場も閉鎖され、それらの遺品は捨てられる運命にあった。それでいいのかと、昔のマイルス社時代の先輩や友人の叱咤激励を受けてそれらを引き取らせていただいた。過去半世紀の間でタカミネ・ラポラトリーは、日本の高峰から、アメリカのマイルス、ドイツのバイエル、ベルギーのソルベー、アメリカのジェネンコア、そして現在のデンマークのダニスコ杜へM&Aの嵐の中で転々とした。その間多くの高峰関遠の遺品が失われてしまった。私が受取ったものは金目の物はなく、ガラクタと紙屑であるが、これらはその後、金沢のふるさと偉人館に寄贈した。この中でも数千点に及ぷ紙屑・古文書は私にとって大変貴重な物である。世に知られていない高峰のさらなる功績を、この中から少しでも拾い上げて広く皆様に知っていただくことも私の役目であると心得る。21世紀はバイオテクノロジーの時代と言われている。地球環境保全やヒトの健康の問題、食料の問題など多くの問題の解決に必ずや大きな貢献をするであろうと思われるのがバイオテクノロジーである。その先駆者が高峰である。高峰はアメリカで事業に成功した後は日本のため、いろいろな事業を起こし、基礎科学の重要性を説いて理化学研究所を発足させ、一方においては日米親善のために身を榛げた。この偉大なる高峰譲吉博士を世に出し、理化学研究所設立の動機となった彼の想いの通り、すなわち資源のないこの国が科学立国、技術立国、あるいは知的財産による頭脳立国で生き延ぴてゆけるように、理科離れと言われる時代ではあるが、次代を担う若い人材が第2、第3の高峰となって生まれ出ることを願っている。皆様の熱い支援、応援を願いたい次第である。


月刊フードケミカル2009年1月号 別刷
バイオテクノロジーの夜明け 一 近代バイオテクノロジーの父・高峰譲吉と食品産業より
新日本化学工業(株)顧問 山本 綽(ゆたか)/当NPO法人理事長

今後の掲載予定

 ・日米親善、民間外交、など…


(記事作成:平成22年2月24日/文責:事務局)